礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田道間守、常世国に使いして橘を求む

2018-08-11 00:10:44 | コラムと名言

◎田道間守、常世国に使いして橘を求む

 福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)の第一期「創業時代」第三章「国初と南方との関係」から、「四 天日槍は何れの国の王子なるか」のところを紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行しないで、次のように続く。

是に於て、范道【ウヂ】河より泝り〈サカノボリ〉て、近江国吾名【アナノ】邑に入り、暫く住みけるも、更に近江より若狭を経て、但馬国に至り、則ち住処〈イドコロ〉を定む、是を以て、近江国鏡村谷陶人【ハサモノスヱヒト】は、日槍の従人〈ツカイビト〉なりと云ふ。彼れ但馬出石の入、太耳【フトミミ】の女麻多烏【マタテ】を娶り〈メトリ〉て、但馬諸助【モロスケ】を生む。諸助日楢杵【ヒナラキ】を生む日榴杵清彦を生む、清彦田道間守【タヂマモリ】を生む。田道間守は、垂仁の朝、常世国〈トコヨノクニ〉に使して橘〈タチバナ〉を求め、十年を経て還り来れば、天皇既に崩ず、是に於て天皇の陵に向ひ、叫哭〈キョウコク〉して自ら死せる者なり。田道間守の弟に但馬日高あり、姪の菅竈由良度美【スガマユラトミ】姫に婚して、生るゝ女子葛城高額【タカヌカ】姫と云ふ、高額姫息長【オキナガ】宿祢王〈スクネノミコ〉(開化天皇の曽孫)の妃と為りて、生む所即ち神功皇后なり。また日槍の初め内海に入る時、筑紫の地にも、其眷族〈ケンゾク〉を留めたりけん、仲哀天皇熊襲〈クマソ〉を討たんとて、筑紫に幸の時、怡土【イト】県主〈アガタヌシ〉の祖五十跡手【イトテ】なるもの、日槍の苗裔と称し、迎ひ奉れることあり。是等に由れは、彼は初めより、日本朝廷の殊遇を受け、子孫は播磨淡路若狭但馬近江及び筑前の諸国に繁栄して、顕要の地を占め、遂に其系より古今比なき英皇后を出し、其霊は、但馬の国に国幣中社として祀らる、其族の如何に偉大にして、如何に幸運の寵児なりしか。【以下、次回】

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