礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6

2018-08-07 04:21:38 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」を紹介している。本日は、その六回目。注〔53〕の指摘に注目されたい。

 
(6) 親の教育権と子どもの権利について  

① 親の教育権
 親の教育権も西原の学説の主要な柱となっている。『良心の自由 増補版』では、ドイツの議論の紹介が主で、日本の状況についての言及は少ない。ここでは、2008年の著作から、西原の親の教育権についての所説を紹介しよう。そこでは、特に、憲法上の基本的人権として「子どもの良心形成をめぐる親の決定権」を主張している。
「 子どもが自分なりの「心」を形作っていくために行われる働きかけに関しては、誰もが目指すべき共通の目標などありません。どのような道徳意識を身につけさせたら子どもの福祉に合致しているのか、という問いすら成り立ちません。
 そのため、国が子どもに授けるべき心の内容を掲げて親の教育に介入し、その理想と違う考え方を子どもに伝えようとする親を罰するならば、それは子どもと親の両方の、憲法一九条で保障された思想・良心の自由に対する侵害になります。親の教育権には、このように、子どもの心のありようを親が決めてしまう―それも親自身の人格が直接に表れてくるような形で決めてしまう―決定権の要素が含まれています。
 日本国憲法に親の教育権は書かれていません。それでも私が親の教育権は日本でも憲法上保障されていると言い続けてきたのは、以上のような構造を踏まえていたからでした。純粋に子どもの福祉を親が実現する場面では、親の教育権は子どもの基本的人権と重なり合います。それに対して、親が人格に基づく決定権として、子どもに対する道徳的な働きかけを行う部分では、親の教育権は憲法一九条の思想・良心の自由に根拠を置いて成り立っているのです。
 子どものことを一番わかっているのは、その子どもを育てている親です。正しい道徳的な意識のありようや人間としての生きる道を示してやることは、究極的には親にしかできないことなのです。他人に指図されずに、親が自分の信じる道をいけばいいのです。〔42〕」(下線は引用者)
 以上の主張は、国旗国歌問題においては、学校儀式で国旗国歌儀礼が導入されそれが強制を伴って実施されるとき、親は子供の良心形成に責任を持つ立場から憲法第一九条に基づいて、子どもにかわってまたは子どもと共に不参加権の保障を求める、ということになる〔43〕。これは憲法上の根拠は別として当然の主張であるが、同時に気がつくのは西原が親の教育権についてかなり性善説的・楽観的な評価に立っていることである。<国民の教育権>説が、教師性善説を採っていることと対照的である〔44〕。とりわけ、親によって極度に偏りのあるイデオロギー的・思想的な働きかけが行われるおそれについては重視されていない。学校教育の一面が<とらわれの聴衆に対する国家言論〔45〕>であるとすれば、家庭内における親の教育権も<とらわれの聴衆にたいする恣意的刷り込み>という側面を持っている。
 西原が肯定的参照軸として重視するドイツの場合、日本国憲法とな異なって親の教育権が憲法上明記されている。しかし、重大な留保条件がついている(下線は引用者)。
「第6条〔婚姻、家族、母および子の保護〕
(1)婚姻および家族は、国家秩序の特別の保護を受ける。
(2)子どもの育成および教育は、両親の自然的権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。この義務の実行については、国家共同体が監視する
(3)子どもは、親権者に故障がある場合または子どもがその他の理由から放置され るおそれのある場合には、法律の根拠に基づいてのみ、親権者の意思に反して、家族から引き離すことが許される。
〔46〕」((4)(5)は省略)
ここには、親の教育権を明確に認めると共にその逸脱の可能性をあらかじめ想定し、国家社会が子どもの権利保全のために介入できる体制が憲法上とられている。ドイツの例を肯定的参照軸とする西原が重視していない重要要素である。
 一方、親による教育内容決定への関与は、国家と教師による教育内容決定権独占を批判する西原の学説からは当然要請されるそうだが、必ずしも積極的ではない〔47〕。学校・クラス単位で多くの生徒・親の個人的要求の組織化ができても、結局は多数決原理による教育内容決定となることで<国家の教育権>説のミニチュア版となってしまうことの懸念によると思われる〔48〕。しかし、西原は専門職としての教師(教師集団)による教育内容決定権を広範に認めているわけではないので(後述)、学校単位の教育内容決定の理論モデル構築は困難になっている〔49〕。

② 子どもの思想・良心形成の自由 
 先に引用したように、子供の良心の自由のみならず良心形成の自由も重視するのが、西原の学説の大きな柱の一つである。国家の良心への介入は、人格が形成過程にある子どもに対して学校を通して影響を及ぼしてゆくのが効率的である。ゆえに、子供の良心形成の自由を確保することは大人も含めた良心の自由確保において決定的に重要となる、というのが西原の主張である。以下は、その点を明確に語っている前出『良心の自由と子どもたち』(2006)の文章である(下線は引用者)。
「発達過程にある子どもの主体性を過度に小さく見積もると、基本的人権全体にとって破壊的な結果につながりかねない。一般的にいって子どもも、少なくとも基本的人権を持つ個人に準じた主体性を認められる必要がある、というのが本書における私の立場である。子どもだからという理由で思想・良心の自由が否定されれば、ことがらは特に深刻となる。〔50〕」
  「 いくら良心の自由が保障されていても、国家が「正しい」良心内容の判定を独占できるところでは、その保障に何の意味もない。そして、国家が正しさの判定を独占するのは、国家が人格形成の過程で「正しい」良心内容に向けた教育を押しつける場合である。つまり、発達期に自由に自分なりの内容を持った良心を形成できるかどうかが、良心の自由がその名に値する形で存在するかどうかの試金石となる。これは、思想の自由に関しても当てはまる。〔51〕」
 子どもの思想・良心形成の自由を重視することは正しい。しかし、思想・良心の形成過程の理論モデルが過度に静態的・二項対立的で、現実を論ずる基準としては果たして参照に堪えるのものであろうか。親が独占的に影響力行使をする一方、子どもが生活時間の多くを過ごす学校は国家と同様に、原則的には材料提供以上の関わりは認められていない。下記の文章は、その点を明瞭に表している(下線は引用者)。
  「 思想・良心の形成に国家が意図的に影響力を行使しているのが、学校という場である。結局、刑事施設においても学校においても、根本的な問題としては、どのような介入が個人の思想・良心の自由との関係で許されないのか、という点に帰着する。
 その際、個人に対して特定内容の思想・良心が強制されれば、基本的には思想・良心を保持する自由に対ずる侵害とみなされる。原則としては、この保持の自由を制約することは許されないはずである。その点を確認した上で、次の問題として出てくるのは、厳密な意味での強制が生じてさえいなければ、それで思想・良心を自由に形成する権利が保障されているといえるのかどうかである。
 「強制」という言葉の意味にも関わるが、学校の中で暗黙のうちに特定の考え方が常識と認められてしまえば、それ上異なる考え方を形成することは困難になる。良心形成のプロセスを問題にする時には、他者の影響を受けてすぐに思想・良心を形成する方向性が揺れ動いてしまい、強制がなくてもー定の方向に誘導されてしまうような個人のことも考えをければならないだろう。そのため、思想・良心を形成する自由を保障するには、学校におけるコミュニケーションのあり方について一定の配慮が必要になる。〔52〕」
 ここで子どもの実態に即した理論モデルについての私見を敢えて述べれば、西原とは異なって以下のようになる。すなわち、国家・地域・学校・メデイア・友人・親などさまざまなアクターがそれぞれの立場から個性=傾きのある影響を及ぼして、全体として適正に機能した場合は、その中で子どもが多少の偏り・逸脱はあっても是正の機会に恵まれつつ長期的には自立した道徳的判断力を形成していくというものである。教師(それも公立学校の教師)を国家権力と一体視し信条的影響を極小化しようとするのが西原の主張であるが、長時間子どもに接する教師も子どもに信条的影響を与える大人の主要な一人である。教師は、子どもが思想・良心を形成する際の環境の多様性を構成する重要な存在であって、国家に対しても親に対しても逸脱の是正力となり得る存在である。学校は、子どもが信条的影響を受けるのが自然な共同社会である。共同社会はどこでも「暗黙のうちに特定の考え方が常識と認められて」おり、子どもが「影響を受けてすぐに思想・良心を形成する方向性が揺れ動いてしまい」がちな場である。むしろ、教師・学校の信条的影響力を当然の前提とした上で、その限度を設定すること、他の影響要素の併存によって子どもの信条形成環境の多様性を確保することを追求すべきであろう。権力をもつ国家・学校(教師)に課せられる制約は厳格に定められねばならないことは当然だが、それは極小化することと同じではない。〔53〕【以下、次回】

注〔42〕『子どもは好きに育てていい 「親の教育権」入門』(NHK出版2008)p105-107
注〔43〕 本稿(4)―①の『良心の自由 増補版』引用を参照のこと。
 内野正幸も一見同様の見解を述べている(『教育の権利と自由』有斐閣1994年)が、西原のように親の権利を憲法第19条に基づかせるのではなく、13条の幸福追求権から引き出している(「わが子の「思想の自由」や「信教の自由」が侵されないことに利益を感じる親の人権」は「憲法13条の幸福追求権の規定から導かれるのである。」(同上p109))。また、あくまでも子どもの人権を基礎に組み立てている。西原の説とは根本で異なるように思える。
(親の養育権(人権としてとらえられる)と子どもの人権が対立する場合について述べたあと)「 つぎは,親の養育権と子どもの人権とが共鳴しあう場合についてである。これは,簡単にいえば,親が子どもを助ける場合である。まえに,学校でわが子の「思想の自由」などが侵害されないよう求める親の立場は,親の人権として位置づけられる,と述べた(109頁参照)。このことは,もう少し広くいうと,つぎのようになる。未成年の子どもが自立した状況にない場合については,自分の子どもの人権が侵害されれば,同時に親の人権も侵害されたことになる。うらからいえば,自分の子どもの人権が侵害されないよう願う親の立場は,親のもつ憲法上の人権として位置づけることができる。しかも,それは,親の養育権の一部をなすものなのである。しかし,未成年の子どもが自立した状態にある場合については,子どもの人権が侵害されていても親の養育権が侵害されたことにはならない,と考えるべきである。この場合は,子どもの人権を主張する独自の意味がでてくる。しかし,子どもの人権が侵害されたことにより親の養育権が侵害されたといえる場合であっても,人権侵害のおもな被害者は,親ではなく子どものほうである,と考えるべきであろう。実際,人権救済を裁判所に訴える場合でも,親としては,自分の養育権を主張することより,子どもの人権を代理して主張することのはうに力を入れるであろう。その意味では,親の人権(養育権)という発想にこだわりすぎないほうがよかろう。何よりも大切なのは,子ども自身の人権なのである。」(p200-201)
注〔44〕教育法学全体に蔓延する楽観主義について内野正幸は以下のように指摘している。内野は親に対する楽観主義的信頼については直接は言及していないが教育言説一般に見られる同根の問題であろう。
「 教育法学の楽観主義的傾向?
 教育法学界でみられるいろいろな主張のなかには,楽観主義的な色彩のふくまれているものも,ときどき見受けられる。このことは,ひとつには,教育関係者への楽観主義的信頼というかたちで現われている。
(中略)
 むしろ,教育関係者は,教育行政担当者であれ,教師や生徒であれ,完全に信頼しきれるものではない,ということを前提にして議論を組み立てていくことも必要であろう。もっとも,こういったからといって,これまでの教育法学界の見解に大きな変更をせまれるわけではない。ただ,完全には信頼しきれない教育関係者どうしのあいだで権利や権限をバランスよく配分する,という発想は,あっていいだろう。」(同上『教育の権利と自由』p131-132)
注〔45〕「Government Speech をめぐる「問題」構造が右のごとく教育の場面に典型的に発現したことは、教育と統治との浅からざる牽連を示唆していて、含意的である。否、突き放して観ずれば、次のように云いうる場合さえ、一再にはとどまらないだろう。教育とは、「囚われの聴衆」に宛てたgovernment speechに対し、政府が冠した美称である、と。」(蟻川恒正「思想の自由」p123(樋口陽一編著『講座・憲法学 第3巻 権利の保障』(日本評論社1994年))
注〔46〕初宿正典・辻村みよ子編『新解説 世界憲法集 第3版』(三省堂2014年)p174 省略した(4)(5)は下記。
「(4)すべての母は、共同社会の保護と配慮とを請求することができる。
(5)嫡出でない子に対しては、法律制定によって、肉体的および精神的成長について、ならびに社会におけるその地位について、嫡出子に対すると同様の条件が作られなければならない。 」
注〔47〕前出『良心の自由と子どもたち』p79。 2014年に発表された論文でも親集団の教育内容要求権については限定的にしか認めていない。
「(4)親の教育要求権  学校教育についての親の教育権は,実質的なコントロールにも及ぶ。教師集団への委託を語る堀尾も公教育が親によって「監視され守られる」とする(堀尾1971:200)。兼子仁は,親の教育要求権という観念を設定し,親からの話し合い要求に応諾する学校・教師の義務や,学校・教師が子どもの権利を侵害した場合の救済請求権を認める(兼子1977:300)。
 親の教育要求権の1つのあらわれに,個々の親が学校教育の内容を是認できずに子どもの解放を求める場面がある。宗教的理由で剣道実技に参加できない生徒のために代替措置を取る学校側の義務を最高裁が認めた神戸高専事件(最2判平8・3・8民集50巻3号469頁)は,親の教育権からも同じ結論に至る。ただし,アメリカで進化論教育拒否の例があるが,子どもが市民生活を送るうえで必要な知識・技能にかかわる普通教育は,親の教育権でも妨害できない。
 これと別に,学校に特定措置を働きかける親の集団的権利として教育要求権が機能する場面がある。親の教育権が人格性と思想・良心の自由に根ざすため,集団的権利はあくまで派生的なものだが,少数派に対して必要な配慮を認めた上でならば,親代表の関与には一応の民主的な正続性がある。」(「親の教育権と子どもの権利保障」p48-49(日本教育学会編『教育法の現代的争点』法律文化社2014))
  西原が紹介するドイツの例では保護者は学校運営に深く関わるが、教育内容についての決定権があるわけではない。(前出『子どもは好きに育てていい 「親の教育権」入門 』p130)
注〔48〕西原自身も2009年の論文ではその点を認めている(前出「教師の<教育の自由>と子どもの思想・良心の自由」p165)。
 広田照之は「子どもは学ぶ権利を持ち、その権利を第一的に保障するものは親であるとする議論」が新たな解決困難な問題に我々を直面させたと指摘している。それは、「第一に、親や子どもが教育のあり方を自由に選べることにともなう負担や責任の問題である。」「第二に、親の自由は、他者不在の閉ざされた自由になりがちで、しばしば公共性を欠いている。」ということである。(「社会変動と「教育における自由」p218-220(前出広田照之編『自由への問い5 教育』所収)
注〔49〕内野正幸は<教育する側の自由権>として<親の教育の自由>を位置づけて、以下のようにまとめている。内野は親の教育の自由には、教育関連措置に関する作為請求権は含まないと明言している。教育内容決定に関する親の関与は、内野によればここで論じられる問題であろう。
「 親の教育の自由という場合、そこでカバーできるのは、家庭教育の自由や、わが子を私塾に通わせる自由や、学校の教育関連措置に関する個人の不参加などの不作為請求であって、作為請求を含まないであろう。それは、学校教育に対する親の要求権を全般的に含むものではなかろう(このような親の要求権は、重視されてよく、また教師の教える自由とも衝突しうるものであるが)。この点、民法(820条)上の親権者の監護教育権(ないし憲法13条後段の幸福追求権条項から導く余地のある親の教育権・養育権)が作為請求を含みうるのとは、事情が異なるであろう。(中略)学校選択の自由は、親の教育の自由に含まれよう。」(『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂 2009年)p113-114)なお、内野によれば親の教育の自由の憲法上の根拠づけの多数説は13条説であるという(同上書p117)。
注〔50〕前出『良心の自由と子どもたち』p110-111
注〔51〕p同上112
注〔52〕p同上118-119
注〔53〕親の教育権と子どもの思想・良心形成の自由を重視する西原だが、教育権を断固行使する親、できなかった親、適切に思想・良心の形成を行った子ども、できなかった子どもの具体例の提示は十分ではない。このことは、彼の理論モデルの非現実性に関連しているのだろう。

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