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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

品川弥二郎の産業政策、その老農好み

2014-10-16 04:57:10 | コラムと名言

◎品川弥二郎の産業政策、その老農好み

 村田峯次郎の『品川子爵伝』(大日本図書、一九一〇)は、本文だけでも七二三ページもある大冊で、まだ通読してはいない。品川弥二郎が水戸黄門の美談を踏襲した話が、この本に載っていることは、奥谷松治〈オクタニ・マツジ〉の論文を読んで知ったのである。
 奥谷松治の論文というのは、彼が『経済評論』の一九三五年(昭和一〇)一二月号に載せた論文「品川弥二郎の産業政策」のことである。
 奥谷松治(一九〇三~一九七八)は、社会運動家にして、すぐれた農業史研究家であった。二宮尊徳や品川弥二郎の研究でも知られている。
 右論文において、奥谷は、品川弥二郎が官僚政治家として産業政策を推進したこと、それを支えた思想が「封建的復古主義」あるいは「老農主義」であったことを強調している。以下は、同論文の八〇~八一ページから引用。

 三、農商務省に於ける品川弥二郎の産業政策
『子爵品川弥二郎伝』〔ママ〕(村田峯次郎著)に依ると、品川は、明治十四年〔一八八一〕第二回内国勧業博覧会が開かれるや其〈ソノ〉事務長となり、同年大日本農会が創立されるや其幹事長となり、翌年〔一八八二〕大日本山林会の創立には、創立委員長となり、又同年創立された大日本水産会には幹事長となり、其外〈ソノホカ〉農商務省の政策に基いて行れた事業には、総て重要なる地位に就任してゐる。これ等の事実を観ると、斯〈カク〉の如き諸事業が彼の方針に基いて遂行された如く観られるが、併し乍ら、農商務省の基礎が、大久保利通より前田正名〈マエダ・マサナ〉へ、一貫する明治政府の方針に基くものである事実に依つて、右の見解は表面的な観察に過ぎざるものであることが実証される。唯品川は、前田が農商務省大書記官であつたのに封して、農商務省少輔、同大輔等、前田よりは、重要の官位にゐた関係上多く表面的に活躍したのであらう。次に品川の創意に基くものと観られる事業を挙げて、之に就て考察を加へることにする。
 明治十三年〔一八八〇〕の秋、品川は内務少輔兼勧農局長の任にありて、福島県下の対面ケ原、猪苗代及び栗子獄等の開墾地巡視の途次、中村〔相馬中村〕に至り、特に二宮尊徳の墓に参詣し(註一)、且つ当時中村に居た尊徳の門人富田高慶〈トミタ・コウケイ〉を訪ひて〈オトナイテ〉、中村藩に於ける開墾殖産の事蹟を尋ねた。同年冬、富田高慶が正七位に叙せられ、且つ二宮富田両家に宮内省より恩賜金を贈られたのは、品川の奏聞〈ソウモン〉に原因すると云ふ(註二)。
 註一 中村にあるのは尊徳の墓ではなく、尊徳の息尊行〈ソンコウ〉の墓ではないかと思はれるが『子爵品川伝』(同書四五五頁)の記述に従つて置く。
 註二 前掲『子爵品川伝』四五五頁参照。
 右の事実は、簡単な一事に過ぎないが、品川の産業政策を観るに軽々に見逃してはならない。其後、明治十六年〔一八八三〕には、静岡県下に於て報徳社運動に従事しつゝあつた福山瀧助〈フクヤマ・タキスケ〉をわざわざ東京に招いて其道を尋ね(註一)、又同十八年〔一八八五〕二月、尊徳の伝記である富田高慶の著書『報徳記』を宮内省に乞ひて其許可を受け(註二)、農商務省に於て之を再版して広く有志に頒布し、更に同年八月、大日本農会に於て同書を刊行して一般に発売した。其外、同年岡田良一郎起草の大日本報徳社草案中の一部分町村報徳社草案を、農商公報号外として頒布した。之も品川の創意に基くものであつた(註三)。以上の事実は、明治十八年五月に公布された前掲『済急趣意書』の起草が如何なる人の手になつたかは別問題として、其内容の封建的労働強化、消費節約の政策即ち尊徳の報徳主義の焼直しに過ぎないものである事実と、品川の産業政策との間には深い関連のあることを認めざるを得ない。
 註一 福山瀧助翁伝『大日本帝国報徳』第十五号に拠る。(明治二十六年〔一八九三〕五月刊)
 註二 『報徳記』は、明治十六年十二月、宮内省に於て出版され、有司に特別に頒布されたものであつたから、其再版は宮内省の許可を受けねばならなかつた。(『大日本農史今世史』参照)
 註三 『品川先生追懐談集』三八頁、東浦庄治著『日本産業組合史』一〇五頁に拠る。
 猶、品川の封建的懐古主義は、単に尊徳との関係のみでない。彼の伝記に依ると、毛利重就〈モウリ・シゲナリ〉、上杉鷹山〈ウエスギ・ヨウザン〉、佐藤信淵〈サトウ・ノブヒロ〉等を説き、又、関根矢作、林勇蔵、大田金十郎等の農功を称揚し、中村直三〈ナカムラ・ナオゾウ〉、船津伝次平〈フナツ・デンジベイ〉、林遠里〈ハヤシ・エンリ〉、鈴木久太夫〈スズキ・キュウダユウ〉等の老農と交りを結びて之を励す等々、彼は所謂老農主義の鼓吹者であつた。伝記に収録された彼の著作の大半が、老農の伝記の序文或は老農表彰の碑文で満ちてゐることも、品川の思想傾向及び其等との交渉の深かつたことを物語るものである。猶、この間の消息を窺ふに足る一挿話を伝記より引用しよう。【以下略】

 このあと、『品川子爵伝』から、品川が水戸黄門の美談を踏襲した話が摘録されるが、この話は、昨日のコラムで紹介したので、省略する。
 文中、「対面ケ原」という地名が出てくるが、〈タイメンガハラ〉と読むのであろう。今日の「対面原」〈タイメンハラ〉のことであろう。また、「栗子獄」の読みは、〈クリコダケ〉か。今日では「栗子山」という呼称が一般的なようである。【この話、さらに続く】

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品川弥二郎、水戸黄門の美談を踏襲する

2014-10-15 04:14:38 | コラムと名言

◎品川弥二郎、水戸黄門の美談を踏襲する

 品川弥二郎について調べているうちに、興味深い「美談」を知った。それは、明治一〇年代に水戸で、徳川光圀(水戸黄門)に関する美談を聞いた品川弥二郎が、感動のあまり、自分もまた、その美談を踏襲したという話である。
 この話は、村田峰次郎の『品川子爵伝』(大日本図書、一九一〇)に載っていた。同書四五六~四五九ページから引用してみよう。

 品川君は夙に〈ツトニ〉山林事業に注意し、木材の要途を説き、林木伐採の害を痛感せり。農商務省に山林局の置かれ、山林学校の設けらるゝや、林学のため殖林のために苦心し、宮内省に御料局長官たるや、木曽地方その他、御料林整理のためには、終始勉強を以て貫けり。彼の〈カノ〉関根矢作、田島直之、金原明善〈キンパラ・メイゼン〉等を奨諭せる、亦その深志の程を察すべし。
 或年品川君、水戸に巡遊しけるに、多数の客座に満ち、談偶々〈タマタマ〉山林の必要に及びければ、座中の老翁語て曰く、むかし藩主光圀の西山〈ニシヤマ〉に隠居せるとき、一日〈イチジツ〉粗服微行して、山村を過ぎけるに、一老人の寸大の苗木を沢山に植付くくるを見たり。問て曰く、其方〈ソノホウ〉は余程の老年なるべきに、斯る〈カカル〉小木の苗を植付け、今後何年にて用に立つと思ふや、迚も〈トテモ〉其方の生存中には役に立たざるべし、これ望〈ノゾミ〉少なき労苦にあらずやと申されしかば、老人憤然として曰く、貴公の如き考の役人多きため、山林は次第に良林闕亡〈ケツボウ〉するばかりなり。今に国中の山には、木は一本もなくなるべし。先づ此方〈コノホウ〉の言ふ事を能く聞き給へ。爰〈ココ〉に小苗を植付くるは、決て〈ケッシテ〉新規の工夫にあらず、伐採せし跡に植続きをする為めなり。人間も御互に、跡目相続人を断やさぬ様にせぬと、一家は忽ちに滅亡し、貴公の様なる、武家にては末期〈マツゴ〉となり、家禄を減少さるゝ如き禍〈ワザワイ〉も来るべし。夫故〈ソレユエ〉私の苗木の植継も、固より〈モトヨリ〉自分の身に即益を急ぐ考に非ず〈アラズ〉。上等の木材は、孰れ〈イズレ〉数十年を要する理なれば、死後に至りて、後世の財宝と成るやう残置く〈ノコシオク〉次第なり。仮令〈タトイ〉身は老年余命とてなき賤者なれども、此国に生れて、殿様の御恩を忘れぬため、責めては老後の置土産と、五十年の後を思ひ数百本の苗木を植継ぎ、終らば、早や明日死ぬとも、御恩を報じた訳になる。貴方の如き馬鹿な役人では、相手に成し難し。御名前は何と曰ふ方にや、御尋ね申したく存ずると詰懸けたれば、サテ此方〈コノホウ〉は、西山の御隠居なりと曰はれたり。スルト其〈ソノ〉老人、俄に〈ニワカニ〉地に平伏し、コレハ御隠居の殿様と知らずに、御無礼を申せし段、何とも恐入りましたと、頻に〈シキリニ〉過言を謝し、冷汗背を潤したり。然る処イヤイヤ決して苦しくない、誠に感心じや、善く言て呉れた、孰れまた遇て礼を申さうト言放て、光圀の御隠居は、直ぐ西山に還られたり。翌日近侍を右の老人の許へ遣はし、即刻出頭致せとの命を伝へられしに、老人は過言の廉〈カド〉を以て、必ず御手討〈オテウチ〉となることならん、再び家に帰ること覚束なし〈オボツカナシ〉と、家内の者と訣別の水杯を酌みて、使者の後に従ひ、苦憂の余り西山にと参りたり。御隠居は椽側〈エンガワ〉に出向はれ、アヽ昨日の老人か、ずつと近寄れと言はれたので、果して御手討に相違なし、されど厳命には背かれぬと、口の内では念仏題目を唱へながら、最早この世もこれ限りと、黙思膝行して椽先〈エンサキ〉まで進むと、頭を挙よとの声を掛けられたり。さて如何致して宜しからんと、呆然と図らず上を見たるに、其方へ昨日の礼として、この一通を遣はすべし。側〈ソバ〉に差控へたる役人が、之を受取り開きて読下すと、要するに此度〈コノタビ〉知行を与へ家来に抱へ〈カカエ〉山林掛〈ガカリ〉の役人にするとの事なり。この老人は如何にも意外なる恩典に打驚き、唯今迄必ず殺さるゝ事と覚悟したるを、助命にてさへ喜〈ヨロコビ〉余りあるべきを、更にかゝる特命の優遇を蒙るとは、夢路をたどる心地せりと、しばし感泣に咽びて〈ムセビテ〉、恩謝の辞も発し得ざりし。夫〈ソレ〉より後ち此老人は、能く林務官の職に勤め、精忠の功を尽し、ます々々勲績を垂れて、天年を終りたり。其子孫も今に家名を継ぎ居れり云々と語れり。品川君は静坐して、始終謹聴し居たりしが、談了るや感涙に堪へず、膝を進めて曰く、右老人の子孫は、何処に在るか、余は是非とも急に面会の必要ありとて、頻にその招致を頼みければ、程なくして其人来れり。君はその人に向ひ、今日斯〈カク〉の如き有益の美談を聞けり。西山公の大徳は勿論なるも、御祖先の卓識は、また実に恐入る。弥二〔品川弥二郎の自称〕等〈ラ〉殖林の秘訣も、亦果して此に外ならず、誠に以て千秋不磨の亀鑑なりと、遂に彼が祖先の功労を賞し、且つ当人が忠良の美質を以て、能くその祖業を受くるを喜び、君は後日帰京のとき、当局官吏と謀り、右老人の子孫たる人を、山林局の役人に採用し、専ら林務に従事せしめられしと云ふ。これ平生〈ヘイゼイ〉君が林業に熱心なりし美談の一例なり。

 原文は、読点(テン)のみで、句点(マル)はなかったが、読点の一部を、適宜、句点に変更した。この文章は、この時代としては珍しく、読点が多用されている。あらたに読点を加えることはしていない。【この話、続く】

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地方のどこに創生の余力があるか

2014-10-14 04:31:57 | コラムと名言

◎地方のどこに創生の余力があるか

 日本経済新聞の「大機小機」欄が、「安倍政権の地方創生は衰退する地域社会にあめとむちで対応しようとしている」と指摘したのは、今月一〇日のことであった。
 岐阜県にお住まいの柏木隆法氏から、個人通信「隆法窟日乗」を拝受したのは、その二日前の八日のことであった。一〇月一日から六日までの分である。
 その「10月6日」の項に、次のようにあった(通しナンバー183)。

 拙の町は伊勢湾台風で相当の被害があった町である。最近は御嶽山〈オンタケサン〉の噴火もあり、濃尾大震災では山崩れが起きた。そのころはお互い助け合う相互扶助の精神所謂が自然に発揮したが、人手不足のためにそうもいかなくかった。安倍晋三は「地方創生」というが、どこにその創生の余力があるのか。既に手遅れの状態に陥っている。こうなつたのも選挙の区割りが小選挙区比例代表制になったために地域割が徹底して浸透したためである。町内ごとに対立し、敵対する雰囲気が定着したことも要因一つと考えられる。また新婚家庭はそれぞれ独立した家を持ち、郊外に住むようになった。町の中心部は寂れ、シャッター通りどころか建物も壊して駐車場になってしまった。

 地方には、すでに「創生の余力」はないという。まさに「地方」から発信されたものだけに、その指摘には実感がこもっている。
 柏木氏は、地方における「人手不足」の実態を、たとえば次のように描写する(いずれも、通しナンバー183からの引用)。

○神社は建物を取り囲む玉垣か崩れて危険な状態になってきた。業者を入れて大々的な修理をしようにもこの不景気、募金しても寄付金は集まらない。稚児行列で稼ごうにも肝心の子供がいない。結局、古くからある家に割当して集めようとしたが、拙のような無信心者は協力なんかするわけはない。
○地方では青年団、婦人会、消防団なんかは若い人は集まらない。青年団、婦人会は二年前に解散した。残るは消防団だけだが、これも老人会になってしまった。

 特別支援学校の生徒が行方不明になったときも、人手不足で「山狩り」ができなかったという。

○毎日駅から通学バスが出ているので途中下車をするところはない。徒歩では通えない辺鄙な場所にある。それがどうしたわけか一人山中に迷い込んで行方不明になってしまった。早遠、警察から3団体に山狩りの要請がきたが、二団体はなく、消防団もヨボヨボ老人ばかりで山狩りなんかとんでもない。結局、各町内会長に要請して人手を集めようとした。集まったのはたった6人、中に霊感の強い高校生がいて、ガショウ神(?)のお告げで行方不明の娘は見つかった。これで万事よしよしということにはならなかった。危機管理の問題が浮上してきた。

 日本経済新聞の「大機小機」欄には、たしかに、「衰退する地域社会」という視点がある。しかし、今日すでに、地方に「創生の余力」はないという認識は、たぶん同欄にはない。もちろん、地域社会の衰退が、「危機管理」という問題にまで及んでいるという認識も。
「大機小機」欄における、「安倍政権の地方創生は衰退する地域社会にあめとむちで対応しようとしている」という指摘は、まさにその通りである。しかし、いま重要なのは、地域社会の衰退の実情を正しく認識することではないだろうか。その認識なしに、安倍政権の地方創生策を批判しても、説得力はない。

今日の名言 2014・10・14

◎「地方創生」というが、どこにその創生の余力があるのか

 岐阜県在住の作家・柏木隆法さんの言葉。「隆法窟日乗」の2014年10月6日の項に出てくる。上記コラム参照。

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分権なしに地方創生はない(大機小機)

2014-10-13 04:28:04 | コラムと名言

◎分権なしに地方創生はない(大機小機)

 今月一〇日の日本経済新聞「大機小機」欄は、久しぶりに読み応えがあった。見出しは「国のかたち問う地方創生を」、署名は(無垢)。
 その前半部分を引用してみる。

 地方創生をめぐる安倍晋三政権の姿勢には地方分権の視点が欠けている。中央集権を維持したまま地域の活性化を目指しても、結局は中央と地方の格差を広げるだけだ。少子高齢化と深刻な財政赤字のもとで限られた資源を効率配分し日本経済を再生させるには、税財源を含む権限移譲を通じ国のかたちを変える大改革こそ求められる。
 世界を見渡せば、分権国家と中央集権国家の明暗は際立ってきた。先進5カ国(G5)をみても分権国家である米国、ドイツに対し、一極集中型の日英仏の低迷が目立つ。分権国家は危機からの復元力が相対的に高い。一極集中型の国家はいったん危機に見舞われれば全国に波及し、地域間格差をさらに広げる。
 英国はスコットランド独立の住民投票で大揺れになったが権限移譲が進むことになった。この英国の教訓に学ぶべきだ。
 安倍政権の地方創生は衰退する地域社会にあめとむちで対応しようとしている。小手先の対策ではなく、地域社会の疲弊に表れた日本経済の構造問題にメスを入れることこそ肝心である。【後略】

 まったく、その通りだ。よくここまで言ったものだという感がある。ただし、筆者をして、ここまで言わしめたものは、「日本経済を再生させ」ねばならぬという危機意識なのである。そこがいかにも、日本経済新聞のコラムらしい。
 文中、米独を分権国家型に、日英仏を一極集中型に分類しているところに、筆者の確かな視点が見てとれる。明治維新の過程を見ればわかる通り、日本は、廃藩置県、官僚機構の整備、憲法制定、宗教統制、教育政策等を通して、短期間で、一極集中型の国家を創りあげた。当時のヨーロッパにおいて、こうした一極集中型の国家は、フランス以外にはなかった。明治の日本は、しばしばドイツと比較されるが、ドイツは、当時から今日まで、基本的に分権国家である。
 後半を引用しなかったのは、「開かれた地域社会」を強調する筆者の論理に、やや違和感を抱いたからである。「地方分権」を肯定するのであれば、「開かれた地域社会」を選ぶか、「閉じた地域社会」を選ぶかという選択も、地域社会にゆだねなければなるまい。
 同コラムの最後は、「分権なしに地方創生はない」という言葉で終わっている。まさに、その通りである。ただし、この見方と同時に、「成長神話の克服なしに地方創生はない」という見方も、成り立つのではないか。ついまた、余計なことを言ってしまった。

今日の名言 2014・10・13

◎分権なしに地方創生はない

 2014年10月10日の日本経済新聞「大機小機」欄で、「無垢」氏が述べた言葉。上記コラム参照。

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鵜崎巨石氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助

錦旗(錦の御旗)は、太陽・太陰の一対

『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話

拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の紹介...

当時の雑誌が報じた力道山・木村政彦戦の内幕(『真相...

革命歌としての「トコトンヤレ節」

岩波文庫『古事記』再版(1927年11月)の解題

武田勝蔵の自費出版『宮さん宮さん』(1969)

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鵜崎巨石氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

2014-10-12 05:15:40 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

 昨日、鵜崎巨石氏のブロクに、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の書評が載った。ご本人の許諾を得たので、以下に、紹介させていただく。

礫川全次著「日本人はいつから働きすぎになったのか 〈勤勉〉の誕生」
 今回の読書は礫川全次著「日本人はいつから働きすぎになったのか 〈勤勉〉の誕生」平凡社新書。
 読後の感想から述べれば、失望感が残った。
 この著者の本は、「サンカと説教強盗」以来、すべて共感と興味を持って読んでいる。
 時には「日和った」などと批判することもあったが、おおむね共感する中での部分的な不同意であった。
 本書とは若干趣が異なる。
 なぜそう言う感を持ったかを説明する前に、本書の梗概を示す必要がある。
 著者はまず、日本人が勤勉だと言われることを採り上げる。そういう評価が実際あることには、同感するしかない。
 この「勤勉」が「自発的な隷従」であると、冒頭序章で述べる。これも異議なし。
 官公庁を例外とせず、大企業から中小企業に至るまで、心身を病み、過労死や自殺に至るまで至る「勤勉性」は、精緻に保護を謳う労働者保護諸法の中でも発揮されているのであるから、これが「自発的、自滅的」な行動であることは、明かである。この点のテーゼは間違いない。
 本書では、こうした「勤勉」が何によってもたらされたかの論述が続く。
著者はM.・ウェーバーの「人々を勤勉に駆り立てるのは、各時代のエ-トスである」を基に、その勤勉像の象徴である二宮金次郎をまず採り上げ、尊徳の勤勉像は実態ではなく、明治以降権力によって「学ばされた尊徳像」であることが述べられる。ここまで同意。
 次いで「江戸時代の農民の一部に勤勉化の意識が生じた」と言う第一テーゼを立て、こうしたエトースの「種子」(これはわたしの用語)は、江戸時代北陸を中心とした浄土真宗によりもたらされたとする。
 そして、上述の「学ばされた尊徳像」が、部分的にも「勤勉化のエートス」として機能し、先述の「種子」を助長せしめたとする。こうわたしは著者の意図を解釈する。OK。
 こうした展開は、その後の都市近郊農民による屎尿取りの驚くべき勤勉性や戦時の勤労報国まで継続するが、その労働の自発性は、「高度の労働自発性」にまで進化することなく今日に至る。そのようにわたしには読める。
 ここまでも同意。
 著者は最後に、「日本人は、その勤勉性は、わずか数百年の歴史しかないのであるから」「勤勉性の由来を見つめ直し」新たな「怠けの哲学」を取り戻そう、といって終わる。
 不満の理由を言えば、全体が尻すぼみである。
 日本人の勤勉が「自発的な隷従」であるとすれば、なぜそれをテーゼの構成として、内在する概念「自発性」、「隷従性」をさらに分析していかないのか。
 本書ではそれが不十分である。
 本書の文脈は、そうした「隷従性」を直ちに「勤勉」と捉える。そうすると、その基が「浄土真宗」にあるとすることは妥当なのか。本書の浄土真宗の記述では、そういう評価はみられない。肯定的な記述の印象を受けるからだ。
 浄土真宗の勤勉への寄与は果たして「非合理」な種子のか。
そもそも本書で頻出する「非合理」は誤記ではないか。「非合理と不合理」は異なる。本書は引用元に引きずられ「非合理」と「不合理」を混同していないか。
 著者は日本人の今日のこの種「不合理な勤勉」を高度成長期以降だとしているが、そうであろうか。わたしはむしろバブル崩壊以降病的になったと思う。
 この「不合理な勤勉性」は、横並びの(「隣百姓」に通じる)村意識が原因では無いか。だから良きにも、悪しきにも転じうる。
 そもそも日本人は合理的な意味で「勤勉」ではない、と思う。われわれは、有能(仕事の処理が上手)なのだが、不本意ながら無駄に、不合理に、勤勉なのである。それが、現代の過労死や「現代の蟹工船」状況なのであると感じる。
 そう論証する力は、わたしにはない。
 無責任だが、わたしは本書を読んでそう思った。

 本格的にして鋭利な批判である。拙著の主張における根底的な部分を衝いている。「誤読」を前提とした批判、あるいは「イデオロギー的」な批判ではない。あくまでも、著者の思考過程、論述の過程に即した批評である。物書きとしては、こういう批評が一番怖い。尾崎光弘氏の「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で展開された書評にもそういうところがあった。
「不満の理由を言えば」以下で、鵜崎氏が提示されたいくつかの疑問について、説明することは不可能ではないが、ここでは述べない。ただ、「本書は引用元に引きずられ『非合理』と『不合理』を混同していないか」という疑問については、あえて「非合理」という言葉を使った、とお答えしておこう。
「全体が尻すぼみである」というご批判は受けとめる。これについて、数々の言い訳はあるが、それもここでは述べない。

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