礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「三河尊徳」と呼ばれた古橋源六郎義真

2014-10-18 04:06:01 | コラムと名言

◎「三河尊徳」と呼ばれた古橋源六郎義真

 古橋源六郎父子の関係、つまり、第六代暉皃〈テルノリ〉と第七代義真〈ヨシザネ〉との関係が、どうもよくわからない。そこで、国立国会図書館の近代デジタルコレクションで、『古橋源六郎翁』という本を参照してみた。一九一二年(明治四五)三月一一日の発行で、「著作兼発行者」は国府種徳〈コクブ・タネノリ〉、発行所は「愛知県北設楽郡農会」、発売所は「報徳会」である。
 この本でいう「古橋源六郎翁」とは、第七代の古橋源六郎義真のことである。義真は、一九〇九年(明治四二)一一月一三日に亡くなった。この本は、故人を追悼する意味で編まれた本のようである。著作兼発行者の国府種徳は、新聞記者出身の官僚で、漢学者・文章家としても知られていた。号は犀東〈サイトウ〉。
 同書の九八~一〇二ページに、次のようにある。

 一二 報徳会の創立
 古橋源六郎翁〔義真〕に『三河尊徳』の綽号〈シャクゴウ〉ありしは、人の知る所なり。何故に然る〈シカル〉か、固より久しい由緒があるなり。蓋し古橋父子が中央の名士に知られしは、明治十一年〔一八七八〕三河出身の勧業寮官吏織田完之〈オダ・カンシ〉が、父子の篤行を勧業頭松方正義に紹介したことに始まり(勤倹儲蓄の章参照)尋いで〈ツイデ〉内務少輔品川弥二郎の知遇を受け、やがて暉皃は富田高慶岡田良一郎と共に天下の三篤農を以て待遇せられ殊に明治十四年〔一八八一〕には東京に於て北白川宮〔能久〕殿下の謁を給はり益々知音〈チイン〉を増加したるものゝ如し。而して品川少輔は熱心なる報徳の擁護者なりしかば、時々其の受用を勧誘したるべく、翁が報徳を信ぜし動機は、蓋し此の系統より来りしならんか。勿論三河は駿遠〔駿河・遠江〕の比隣なり、駿遠には嘉永以来の報徳社あり。仮令〈タトイ〉左なき〈サナキ〉までも民政に注意せし父子の事なれば、二宮翁偉績の大体は夙に〈ツトニ〉聞知し居たるに相違なし。併し其の愈々実行するに至りし縁由〈エンユウ〉は、恐らく当時の内務省にありしなるべし。【中略】
 明治某年冬、品川弥二郎息弥一の洋行を神戸に送りて神戸に至るや、途〈ト〉名古屋に宿して書を父子に贈る。書は名刺の表裏に鉛筆もて記したもの、其の文左の如し。
『野州轟村〔現・日光市〕の老農狐塚五郎吉を訪ひ
 二宮翁の事績を聞きて
  日に五もん夜は一把の縄をもて
  積み貯へし恵み忘るな
 翁在世の時より今日まで一村挙つて〈コゾッテ〉報徳の教を奉じ、毎日五文を一把の縄にて共有金を積蓄し、地租改正其他の入費、今日まで更めて戸別に課せず、残らず元の利子にて支出せしといふ。報徳の尊むべき御同慶に堪へず。
 十一月二十八日 名古屋秋琴楼にて認む〈シタタム〉。  やじ」
    古橋様
 不相変〈アイカワラズ〉御勉務のよし伝承敬賀仕候。此度豚児弥一洋行候に付東海道を経て伊勢参宮為致〈ナシイタシ〉、神戸より仏国船に乗込せ可申候。やじは来春二月頃渡航の含みなり。ご面談得〈エ〉致さぬは残懐千万なり。三四年之後帰朝を相楽しみ居〈オリ〉申候。なにとぞ御愛養くれぐれも御勉務之程、国之為に奉祈上〈イノリアゲタテマツリ〉候。
 十一月二十八日 名古屋秋琴楼にて         やじ
   古橋老人 座右』
 一は以て其の交情を見、一は以て斯る匆卒〈ソウソツ〉の際にも報徳の鼓吹を怠らざる熱心の度を察すべく、且つ其の『報徳の尊むべき御同慶に堪へず』といふに徹し、以て既に斯道〈シドウ〉に関し、相契合する所ありしを知るに足るなり。

 あとのほうの手紙にある宛名「古橋老人」とは、たぶん、第六代暉皃のことである。しかし、品川弥二郎は、実質的には、この手紙を、第七代義真に宛てて出していると理解すべきであろう。
 さて、上記の文章から、以下のようなことがわかる。
1 第六代暉皃は、「天下の三篤農」のひとりとされていた。
2 第七代義真は、「三河尊徳」と呼ばれていた。
3 父子が、中央の名士に知られるようになったキッカケは、三河出身の官僚・織田完之が、父子を松方正義に紹介したことであった。
4 父子が報徳運動に関わるようになったのは、品川弥二郎の奨めによるところが大きかった。
5 実際に、報徳運動を推進したのは、第七代義真であったと思われる。

 昨日のコラムの最後で私は、「父子と品川弥二郎との接点はハッキリしないが、北設楽郡長、東加茂郡長などの要職を務めており、中央とのパイプを持っていた古橋義真を通じてのものだったことは、ほぼ間違いない」と書いた。この点を、上記の文章によって確認することはできない。ただし、これを否定しなければならないわけでもない。たとえば、古橋義真がどこかで織田完之に、品川弥二郎への紹介を頼んだといったことがあったのではないか。
 いずれにしても、三河稲橋村の古橋源六郎父子の存在を世に知らしめたのが、子の古橋義真の行動力と人脈だったということは、ほぼ間違いない。

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