礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鵜崎巨石氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

2014-10-12 05:15:40 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

 昨日、鵜崎巨石氏のブロクに、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の書評が載った。ご本人の許諾を得たので、以下に、紹介させていただく。

礫川全次著「日本人はいつから働きすぎになったのか 〈勤勉〉の誕生」
 今回の読書は礫川全次著「日本人はいつから働きすぎになったのか 〈勤勉〉の誕生」平凡社新書。
 読後の感想から述べれば、失望感が残った。
 この著者の本は、「サンカと説教強盗」以来、すべて共感と興味を持って読んでいる。
 時には「日和った」などと批判することもあったが、おおむね共感する中での部分的な不同意であった。
 本書とは若干趣が異なる。
 なぜそう言う感を持ったかを説明する前に、本書の梗概を示す必要がある。
 著者はまず、日本人が勤勉だと言われることを採り上げる。そういう評価が実際あることには、同感するしかない。
 この「勤勉」が「自発的な隷従」であると、冒頭序章で述べる。これも異議なし。
 官公庁を例外とせず、大企業から中小企業に至るまで、心身を病み、過労死や自殺に至るまで至る「勤勉性」は、精緻に保護を謳う労働者保護諸法の中でも発揮されているのであるから、これが「自発的、自滅的」な行動であることは、明かである。この点のテーゼは間違いない。
 本書では、こうした「勤勉」が何によってもたらされたかの論述が続く。
著者はM.・ウェーバーの「人々を勤勉に駆り立てるのは、各時代のエ-トスである」を基に、その勤勉像の象徴である二宮金次郎をまず採り上げ、尊徳の勤勉像は実態ではなく、明治以降権力によって「学ばされた尊徳像」であることが述べられる。ここまで同意。
 次いで「江戸時代の農民の一部に勤勉化の意識が生じた」と言う第一テーゼを立て、こうしたエトースの「種子」(これはわたしの用語)は、江戸時代北陸を中心とした浄土真宗によりもたらされたとする。
 そして、上述の「学ばされた尊徳像」が、部分的にも「勤勉化のエートス」として機能し、先述の「種子」を助長せしめたとする。こうわたしは著者の意図を解釈する。OK。
 こうした展開は、その後の都市近郊農民による屎尿取りの驚くべき勤勉性や戦時の勤労報国まで継続するが、その労働の自発性は、「高度の労働自発性」にまで進化することなく今日に至る。そのようにわたしには読める。
 ここまでも同意。
 著者は最後に、「日本人は、その勤勉性は、わずか数百年の歴史しかないのであるから」「勤勉性の由来を見つめ直し」新たな「怠けの哲学」を取り戻そう、といって終わる。
 不満の理由を言えば、全体が尻すぼみである。
 日本人の勤勉が「自発的な隷従」であるとすれば、なぜそれをテーゼの構成として、内在する概念「自発性」、「隷従性」をさらに分析していかないのか。
 本書ではそれが不十分である。
 本書の文脈は、そうした「隷従性」を直ちに「勤勉」と捉える。そうすると、その基が「浄土真宗」にあるとすることは妥当なのか。本書の浄土真宗の記述では、そういう評価はみられない。肯定的な記述の印象を受けるからだ。
 浄土真宗の勤勉への寄与は果たして「非合理」な種子のか。
そもそも本書で頻出する「非合理」は誤記ではないか。「非合理と不合理」は異なる。本書は引用元に引きずられ「非合理」と「不合理」を混同していないか。
 著者は日本人の今日のこの種「不合理な勤勉」を高度成長期以降だとしているが、そうであろうか。わたしはむしろバブル崩壊以降病的になったと思う。
 この「不合理な勤勉性」は、横並びの(「隣百姓」に通じる)村意識が原因では無いか。だから良きにも、悪しきにも転じうる。
 そもそも日本人は合理的な意味で「勤勉」ではない、と思う。われわれは、有能(仕事の処理が上手)なのだが、不本意ながら無駄に、不合理に、勤勉なのである。それが、現代の過労死や「現代の蟹工船」状況なのであると感じる。
 そう論証する力は、わたしにはない。
 無責任だが、わたしは本書を読んでそう思った。

 本格的にして鋭利な批判である。拙著の主張における根底的な部分を衝いている。「誤読」を前提とした批判、あるいは「イデオロギー的」な批判ではない。あくまでも、著者の思考過程、論述の過程に即した批評である。物書きとしては、こういう批評が一番怖い。尾崎光弘氏の「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で展開された書評にもそういうところがあった。
「不満の理由を言えば」以下で、鵜崎氏が提示されたいくつかの疑問について、説明することは不可能ではないが、ここでは述べない。ただ、「本書は引用元に引きずられ『非合理』と『不合理』を混同していないか」という疑問については、あえて「非合理」という言葉を使った、とお答えしておこう。
「全体が尻すぼみである」というご批判は受けとめる。これについて、数々の言い訳はあるが、それもここでは述べない。

*このブログの人気記事 2014・10・12

『トラ・トラ・トラ!』撮影にまつわるウラ話

「変体仮名」廃止の経緯(春日政治『国語叢考』より)

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助

憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか

柏木隆法氏の『千本組始末記』と取材協力者

「外交官及領事官試験委員長」埴原正直

大スター・中野英治と若手歌手・岡田有希子

佐藤義亮『生きる力』の復刊

錦旗(錦の御旗)は、太陽・太陰の一対

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『トラ・トラ・トラ!』撮影... | トップ | 分権なしに地方創生はない(... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大変失礼しました (鵜崎巨石)
2014-10-12 10:41:00
穏やかな再コメントで安心しております。
「尾崎光弘のコラム」を拝見しましたが。、あのくらい読み込まないと、「書評」ということは出来ないでしょう。2,3時間で乱暴な印象を語って申し訳ありませんでした。
何しろ老い先短く、先を急ぐもので。
貴著「戦後ニッポン犯罪史」を購入しましたのでいずれ失礼の無い感想をアップいたします。
返信する

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事