礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

雑誌『ことがら』の編集委員会「規約」について

2012-08-26 05:27:33 | 日記

◎雑誌『ことがら』の編集委員会「規約」について

 先日のコラムで、雑誌『ことがら』の終刊について触れた。その際、小阪修平が終刊にあたって書いた文章を紹介した。小阪によれば、同誌の編集委員会は、創刊にあたって、まず「規約の討議」をおこなったという。また彼は、『ことがら』を終刊せざるを得なかったのは、規約のなかのある条項のためだったと述べていた。
 ことがらの「規約」なるものは、同誌の第一号から第七号までを通覧しても発見できない。しかし、なぜか第八号終刊号(一九八六)の最終ページに、その「規約」が掲載されている。参考までに引用しておこう。

『ことがら』編集委員会の活動にかんする原則(付録)
A. 雑誌発行上の原則について
1、年間4回発刊する。(機械的に発刊する)
締切までに来た原稿はすべて掲載する。原稿の内容によって掲載するかいなかを判断しない。
締切までに原稿がこない場合は自動的に休刊する。次回に発刊を廻す。
2、締切までに来た原稿はすべて掲載するために各号により頁数は変わる。
雑誌発刊のための費用は執筆者の頁数におうじて分担する。
3、雑誌発刊に必然な作業は執筆者がおこなう。
4、毎号執筆の義務はない。
5、各号ごとに合評会をおこなう。
B. 編集委員会の意志決定について
6、編集委員会の構成員の全員一致を原則とする。
全員の意見が一致しなければ編集委員会としての意志決定はできないとする。
C. 寄稿について
7、寄稿は編集委員会の規約(A、2、3)を条件として認める。つまり、寄稿者は雑誌発刊に必要な作業おこない雑誌の頁数におうじた費用を支払うという条件のもとで寄稿を認める。
8、寄稿を次回から断る場合がある。
D. 編集委員会への加入について
9、編集委員会の構成員の全員が一致して認めた場合、加入できる。
E.  編集委員会からの離脱について
10、いつでも、編集委員会から離脱できる。
F.  分刊について
11、規約(A.1、2、3、4、5、B.6、C.7、D,9、E.10)の応用、その他の原則的なもんだいで編集委員会が内部対立した場合は、各々が新たに雑誌を発刊する。
その場合、雑誌の名称は各々でともに継続しない。
G. 廃刊について
12、規約(A.1、2、3、4、5、B.6、C.7、8、D.9、E.10。F.11)は変更しない。
13、編集委員会が規約を変更して、雑誌を継続しようとする場合は廃刊にする。

 以上が、雑誌『ことがら』の規約である。要するに、「編集委員会が内部対立した場合」は、廃刊が避けられないという性格の規約である、また、編集委員会の誰も、『ことがら』という誌名を引き継げないということを定めた規約でもある。
 そして事実、この「内部対立」が生じて、『ことがら』は終刊したということなのであろう。小阪は、終刊号に書いた文章の中で、その「内部対立」についても、わずかに触れている。もちろん、詳細は不明である。この点については、そのうちまた、青木茂雄氏から証言を引き出しておきたいと考えている。
 なお、先日のコラムを発表した後、青木氏からメールがあり、『ことがら』が使用していた電動和文タイプライターの機種を思い出した、たしか「モトヤのタイプレス」だったという。付記し、前回の推測(シルバー精工か)を撤回しておきたい。

今日の名言 2012・8・26

◎一部買ってもらうことが光りかがやいていた

 小阪修平の言葉。『ことがら』終刊号(1986)の84ページにある。「わたしは『ことがら』を出す二年ぐらい前から、商業誌にそこそこ文章を発表できるようになったが、商業誌に文章を発表して一万円もらうより、『ことがら』を一部買ってもらうほうが、ずっとうれしいという実感があった」。

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高木惣吉が見た占領下の日本人(付・いじめと学校の権威)

2012-08-25 06:49:42 | 日記

◎高木惣吉が見た占領下の日本人

 高木惣吉といえば、元海軍少将で、戦中には東条英機首相の暗殺計画を立案したという異色の軍人として知られている(東条内閣が総辞職したため、同計画は未遂)。
 その高木惣吉が、一九五二年(昭和二七)に発表した興味深い文章がある。正確に言えば、文章そのものも悪くないが、一箇所、特に興味深いところがある。掲載されているのは、雑誌『文藝春秋』一九五二年六月臨時増刊「アメリカから得たもの・失ったもの」、すなわち、瀧川政次郎の「東京裁判全員無罪論」が掲載されているのと同じ号である。
 タイトルは「古い戦争観が齎した〈モタラシタ〉もの」、「自由になった人民にとつては自由を全うすることは難しい」というサブタイトルは、マキャベリの言葉に由来するものである。さて、興味深いのは、その四二ページにある次の部分である。

 終戦の年〔一九四五〕の十一月、「終戦事務のため出頭ありたし」という電報を受取つた私は、超満員の列車で、機関車にすがつてようやく東京に出ていつた。ところがその頃まだ新嘗祭〈ニイナメサイ〉という祭日〔一一月二三日〕があつて発信者の役所は誰も登庁していない。あちこち訊ねた〈タズネタ〉すえ、東京クラブに間借りしていた終戦連絡事務局でようやくUSSBS(米国戦略爆撃調査団)の質問に応ずるための呼出しだという意昧が解った。
 その日ビッソン氏ほか三名の委員は、午後二時から字義どおり一秒の休みもなく真暗くなるまで質問を連発してその能率本位の仕事ぶりをみせてくれたが、日本側の役所が休むことだけは戦勝国以上で、尋ね廻らないと受取つた電報の用向きさえ判りかねるのと洵〈マコト〉に対照的であつた。
 これも私の些細〈ササイ〉な個人的経験にすぎないが、二十二年(一九四七)年の七月、国際裁判のタヴェナー検事から求められて、二三回市ケ谷台に出頭したことがある。坂下の表門にMPの補佐らしく日本人の守衛が二人控えていたが、私の言葉などロクに聞こうともせず、押しかぶせるように、
「何の用件だ、誰に会いに来た、この面会用紙に書きこめ」
 という調子で、おそらくおなじ思いをさせられた人は多いと想像するが、初めの日、私はチャンギー〔シンガポール〕かマヌス島〔ニューギニア〕に捕われた戦犯の身分かと錯覚を起したくらいであつた。ところがその後ソ連のパセンコ検事から口供書の提示を求められ、GHQの二世中尉の自動車でおなじ正門を出入した時の彼等の態度はまるで別人であつた。占領軍という虎の威を借りて言後道断の振舞いをしたのは通訳とか守衛ばかりでなく、実に堂々たる政府要路〔中枢〕の大官要人はじめ、多くの官僚たちもおなじであつた。国民の前には狼のごとく、占領軍の前では猫よりも卑屈であつた。

 高木惣吉がこのように書いてから、すでに六〇年が経とうとしている。しかし、日本では、一般大衆に対しては狼のごとく、権力に対して猫のように卑屈な一部勢力が、いまだに残存しているのという感が拭えない。しかも、昨年から今年にかけては、特にその弊害が目立つように思うのだが、どんなものだろうか。

今日の名言 2012・8・25

◎昔は学校に権威があったが、今はない

 東京、五十代の中学校教師の言葉。本日の東京新聞「いじめ―中学教師が語る―」(下)に出てくる。昔は学校に権威があったというが、この「昔」とはいつごろのことだろうか。また、学校に権威があった時代には、いじめはなかったのか。それとも、単に表面化しなかっただけなのか。現場にある教師にこそ、徹底した議論と透徹した認識を望みたい。

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外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』を読み、考える

2012-08-24 05:04:59 | 日記

◎外務省通訳養成所編纂『日米会話講座』を読み、考える

 数年前、『日米会話講座』と題した粗末な冊子を入手した。そのまま、開くこともなく放置していたが、数日前思い出して読んでみたところ、実に興味深い資料であることがわかった。
 この本の背表紙には、「日米会話講座 外務省通訳養成所編纂」としか書いてないが、「奥付」を見ると、この講座は全六巻からなり、私が入手した本は、その第一巻第二輯にあたっていることがわかる。発行日は、一九四六年(昭和二一)の一一月一日。著者の欄には、都合四つの名前が並んでいる。最初に、外務省終戦連絡中央事務局監修、次に、外務省通訳養成所編纂、さらに編纂代表者二名、熊谷政喜およびアイナ・メイ・クマガイである。発行者は日米会話講座刊行会で、その代表者は、多田鉄之助である。
 この本に関しては、いろいろ紹介してみたい箇所があるというか、あらゆる箇所を紹介してみたい衝動に駆られるが、本日はとりあえず、「西洋礼儀と作法」のうちの、「E、遠慮をしすぎたり礼を云ひすぎたりするな」という一文を紹介しておこう。

 最後に、我々日本人と西洋の人々との性格的な相違と云ふか、習慣的な相違と云ふか、我々日本人は人前では出来るだけ遠慮して物を云つたり物をいただいたり、する事を以て徳とし、又反対に相手の親切に対しては辞を低ふし、礼を尽して謝礼すべきである事を教へられて来てゐるが、西洋の人々に於ては、それが返つて彼我〈ヒガ〉の友情を水くさいものにさせる原因として見られる事を注意したい。
 例へば、お茶やお菓子をすすめられた場合も、欲しいならほしい、ほしくないならほしくないと云ふ事を遠慮なく、思ふ通りに云ふべきで、決して遠慮してはならない。西洋の人々は、日本人の様に(西洋の人は相手の言葉を額面通りに取るので)色々繰返してあまりすすめる事をしない。
 又反対にお世話になつた事や、いただいた物に対してあまりくどくどと礼を云ひすぎると、西洋の人々はこびへつらひの様に聞えて、不愉快がる。お礼は一度で沢山である。又家の人のあの人、この人と別々に云ふ必要は一つもない。くれた時にそこに立合つてゐた人に云ひさへすれば、それで充分である。我々日本人にとつてはとてもそれでは物足らないが、あの人々にとってはそれで充分である。
 従つて西洋の人々に物をやつて礼を別に云はれなかつたと云つて、少しも不快がる必要はない。又礼を厚く云はれなかつたからと云つて、先方が少しも有難がつてゐないのだと考へる事も行過ぎである。彼等自身が貰つた物やしてやつた事に対して礼を云はれる事を期待しないいと同様、又自分も、自分に物を贈り、恩を施した人が自分からの礼を期待してゐるとは決して思はないからである。そしてその様な淡々とした所に西洋人のよさがあがあり、つきあいよさがある事を我々は充分理解してゐないと、飛んだ誤解を生じたり、疎遠になったりする原因を作つてしまふのである。

 いかにも、ゆきとどいた注意である。当時の日本人に対しては、なおこのような注意が必要だったことは理解できる。ただ、今日の日本人に対しては、すでにこうした注意は不要になっていると思う。
 この文章を読んで、筆者の意図とはまったく別に、考えることがあった。今日私たち日本人は、古い世代の人々や、古い慣習が残っている地域の人々に対して、「礼が足りていない」のではないか。そうした方々は、今日なお、実は、言い過ぎるぐらいの礼を期待しているのではないだろうかと。

今日の名言 2012・8・24

◎報ゆる者は倦み、施す者は未だ厭かず

『春秋左氏伝』にある言葉。「倦み」は〈ウミ〉、「厭かず」は〈アカズ〉と読む。恩に応える側は、もうこれくらいでいいと思うが、恩を施した側は、まだそれくらいではと言って、満足しないという意味である。上記のコラムを書いているうちに、この言葉を思い出した。この言葉にあるのは、あくまでも東洋人の感覚であって、西洋人は、こうした感覚とは無縁なのかもしれない、などと考えた。

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津久井龍雄、日本の国民性について語る

2012-08-23 05:49:39 | 日記

◎津久井龍雄、日本の国民性について語る

 津久井龍雄の『日本国家主義運動史論』(中央公論社、一九四二)の紹介の三回目である。本日は、津久井が文筆活動にあたって心がけてきたこと、日本の国民性ということについて語っている部分を引用する(原本一九八~二〇一ページ)。

 最初に筆者が筆を執つたのは文藝春秋の新聞月評であつたかと思ふが、これは田村町人といふ匿名で書いたのである。此の月評を執筆する根本の意図は、主として無見識無定見のジャーナリズムを打つといふところにおかれ、左翼や民主主義の運動が盛んなときは無条件に之〈コレ〉を礼賛し、いままた時局が右に向けば、先を争つて其の提灯を持つといつた唾棄〈ダキ〉すべき態度を戒めると、いふところに其の眼目をおいたのである。
 序〈ツイデ〉に云へば、爾来〈ジライ〉筆者の物する文章のすべてを一貫するものは右の趣旨に尽くるといつでさしつかへなく、日本国民の最も悪しき欠点は、此の軽薄なる雷同性と無批判性とにあることを指摘してきたのである。僅か〈ワズカ〉数年前までは国家とか軍人などといふものにはまるで無関心でゐながら、今はただ無批判にその権力の前に叩頭〈コウトウ〉する醜態はそもそも何事であるか。さういふ無批判なことでは、再びまた時勢が変化すれば、それに伴つてどう豹変するかわかつたものではない。個人主義から全体主義への推移といふやうなことも、個人主義とは何か全体主義とは何かといふことが能く〈ヨク〉呑み込め、その上で合理的な転心が行はれるならば結構であるが、個人主義もわからず全体主義も呑み込めず、それで一時の時潮に迎合して右往左往するといふのでは、その不見識が憐れ〈アワレ〉まれるばかりでなく国家の憂患は測り知り難いものがある。
 このことはひとりジャーナリズムの世界にだけ見られることではない。日本の社会のあらゆる部面に例外なく見られる現象である。無産党などといふものの醜態は、なかんづく〔とりわけ〕見られたものでなく、筆者等が散々その非国家主義的傾向に対して反省を促したときは、どこを風が吹くかと嘯いて〈ウソブイテ〉ゐたものが、一朝〈イッチョウ〉時勢の変に会ふと、ただ当局の鼻息を窺つて取り潰しの厄〈ヤク〉に遭はざらんことにこれ汲々とし、世俗にいはゆる恥もなければ外聞も忘れるといふの浅ましい陋態〈ロウタイ〉をさらけ出したのである。
 嗤はる〈ワラワル〉可きは無産党のみではない。政友会も民政党も少しも変つたことはない。表面では軍人や官僚などに如何にも反抗するやうなヂェスチュアを示しつつも、時局に対する真の理解も又見透しもないのであるから、あくまで彼等と闘ふ勇気などの出るわけはなく、軽薄な嫌がらせなどを事としつつ結局は朝に一城を抜かれ、夕に一郭を落され、遂には我とみづから其の首を縊つて〈ククッテ〉生ける屍〈シカバネ〉として議会の一角に佗しい〈ワビシイ〉存在をつづけてゐる有様〈アリサマ〉である。
 日本国民が真に東亜の盟主として全アジアに号令するのみならず、いはゆる八紘一字の大理想を天下に布施〈フセ〉せんとするならば、このやうな軽薄さからまづ第一に蝉脱〈センダツ〉しなければならない。また国民全体としても、また国民各員としても、自主独立の気概と自覚とを鮮かにし、如何なる道を進むにせよ必ず自己の納得せる信念に立脚して之を行ふといふことにならなければならない。さう考へて初めて他を動かし他を率ゐることが可能となるのである。
 筆者の書くものには、たとへ眼前卑俗の政界の動きを対象とするやうな場合でも、必ず右の趣旨を反映せしめなかつたことはない。あるいは少し冗い〈クドイ〉と思はれるくらゐ、その趣旨を反覆しすぎたかも知れない。しかし現在の日本において云はるべき最も必要なことは此の一点を最もとするといふ信念において筆者は今尚ほ〈ナオ〉寸毫も変るところはないのである。

 軽薄な日本国民は、「東亜の明主」にふさわしいのかという鋭い問いかけに注目したい。
 また、文中に、「さういふ無批判なことでは、再びまた時勢が変化すれば、それに伴つてどう豹変するかわかつたものではない」という箇所がある。こういう冷めた認識が、津久井の津久井たるゆえんである。ことによると津久井は、この時点ですでに、「再びまた時勢が変化」することがありうると予想していたのではないだろうか。
 三回にわたって、津久井龍雄の『日本国家主義運動史論』を紹介してきたが、実は、一番紹介したかったのは、本日紹介した部分である。津久井龍雄という思想家については、また機会を改めて紹介してみたい。

今日の名言 2012・8・23

◎日本国民の最も悪しき欠点は、此の軽薄なる雷同性と無批判性とにある

 津久井龍雄の言葉。『日本国家主義運動史論』(中央公論社、1942)の199ページにある。上記コラム参照。

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右翼思想家・津久井龍雄の思想遍歴

2012-08-22 05:58:03 | 日記

◎右翼思想家・津久井龍雄の思想遍歴

 昨日に続いて、津久井龍雄の『日本国家主義運動史論』(中央公論社、一九四二)の内容を紹介する。
 本日は、津久井が、みずからの思想遍歴や、高畠素之〈タカバタケ・モトユキ〉・上杉慎吉らとの出会いについて振り返っている部分を引用してみよう(原本一二一~一二四ページ)。

 人間は誰でも自分が始め計画した通りのプランの跡を追つて一分の狂ひもなく予定の人生コースを終るなどといふ訳のものではなく、逆に却つて〈カエッテ〉意外から意外への道を辿る〈タドル〉ことが多いのではあるまいか。少くとも筆者の場合の如きはそれに近いものであり、始めから斯かる〈カカル〉道を歩まうと堅く決意して起ち上つたといふわけではない。青年にして客気〈カッキ〉定まらざる時代において、われわれの運命は実に些細〈ササイ〉の事柄によつて決せられるのである。筆者は過去において只の一分間も左翼の運動に関係を持たず、そのことに対する深い感謝の気持を忘れたことはないが、それはたまたま筆者が自分の親しい思想的指導者として転向後の高島素之氏や、あるひは上杉慎吉博土の如きを持つたといふ偶然のことに因る〈ヨル〉のであり、若し〈モシ〉高畠氏の代りに堺〔利彦〕氏を知り、上杉博士の代りに河上〔肇〕博士に接したとすれば、その結果ばどうなつたであらうか。ここにおいてわれわれは運命の恐しさを感じ、運命への対処においていやしくも慎重を欠いてはならない所以〈ユエン〉を感ずると共に、また誤つて異つた道に奔つた〈ハシッタ〉人々に対しても、決して之〈コレ〉を徒ら〈イタズラ〉に悪み〈ニクミ〉排することの不当なるを思ふのである。人誰か過ちなからんや、何人も常に過ちを犯してゐるのである。よしんば信念を異にして厳しく闘ひ合つてゐる瞬間においても、その半面に軅て〈ヤガテ〉破顔一笑して宇宙の大道に帰一〈キイツ〉し得るの可能あることを信すべきである。【以下、一段落分を略す】
 多くの青年がさうであるやうに、筆者も亦た〈マタ〉様々の悩みによつてその青春を削られる思ひをつづけた。一番骨身にこたへたのは矢張り〈ヤハリ〉貧窮である。故郷から一文の仕送りも受けることの出来ない身は辛うじて叔父の家に厄介になり、叔父の知り合ひの有名な漢文の大家公田連太郎〈コウダ・レンタロウ〉氏の筆耕をして若干の小遣銭〈コヅカイセン〉を得るといふやうな仕儀〈シギ〉であつた。それゆゑ月給三十数円を以て時事新報校正部に夜勤の口を見出し得たときは誠に天にも昇る心地であつた。筆者は斯かる経験を通じて貧乏が如何に呪ふ〈ノロウ〉べく悪むべきものであるかを知り、貧乏を社会から絶滅しなければならぬと痛感した。これが後に社会運動に自分を駆り立てた一つの素因をなしてゐないとは云へない気がする。恋愛の問題については記すほどの事もないが、世間多数の青年とともに、その重大なる影響の外にありえなつたことは云ふまでもない。思想の問題宗教の問題についても一と通りの苦悶を経たが、その頃倉田百三〈クラタ・ヒャクゾウ〉氏等によつて再評価の機縁をつくられた親鸞教の如きは最も筆著を魅惑せしめたものであつた。朋友と共に自炊生活をしてゐた大久保の住居では本箱の上に仏像をかざり、朝夕阿弥陀経や歎異抄〈タンニショウ〉を講した記憶もある。キリスト教にも興味は持つたが、一度海老名騨正の説教をきいてその偽善的表情に嫌悪を感じ、之は一度で引き退つて〈ヒキサガッテ〉しまつた。但しバイブルは久しく自分の敬誦する聖典の一つであり、今も尚ほ〈ナオ〉さうでないとは云へない。社会主義の学説には頗る〈スコブル〉多くの魅力を感じたが、しかも日本の社会主義者達が常に醜い仲間喧嘩をし、互いに悪罵を交換し合つてゐるのに対して嫌厭〈ケンエン〉を感じ、その中に深く入り込んで行かうとする気持はどうしても起らなかつた。トルストイや武者小路実篤が好きであるかと思へば、田中王堂や杉森孝次郎に興味を感ずると云つた具合で、ここにも青年期の気まぐれを顕著にしてゐた。上杉慎吉や高畠素之は最も嫌ひであり、前者は曲学阿世〈キョクガクアセイ〉の典型と信じ、後者は「生田長江〈イクタ・チョウコウ〉の癩病的資本論」などと平気で云ふ下品な態度が堪らなくいやだつた。その最も嫌ひな上杉や高畠と数年ならずして最も親縁な関係に立つことになるといふところに運命の奇が潜むと云ふべきであらう。

 本日の引用はここまでとするが、ここで引用した部分などは、津久井龍雄という右翼思想家が、いわゆる右派活動家とは異なるタイプの思想家であったことが、よく看取できる一文と言えるだろう。【この話、続く】

今日の名言 2012・8・22

◎人誰か過ちなからんや、何人も常に過ちを犯してゐるのである。

 右翼思想家の津久井龍雄の言葉。『日本国家主義運動史論』(中央公論社、1942)の120~121ページに出てくる。上記コラム参照。

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