◎高木惣吉が見た占領下の日本人
高木惣吉といえば、元海軍少将で、戦中には東条英機首相の暗殺計画を立案したという異色の軍人として知られている(東条内閣が総辞職したため、同計画は未遂)。
その高木惣吉が、一九五二年(昭和二七)に発表した興味深い文章がある。正確に言えば、文章そのものも悪くないが、一箇所、特に興味深いところがある。掲載されているのは、雑誌『文藝春秋』一九五二年六月臨時増刊「アメリカから得たもの・失ったもの」、すなわち、瀧川政次郎の「東京裁判全員無罪論」が掲載されているのと同じ号である。
タイトルは「古い戦争観が齎した〈モタラシタ〉もの」、「自由になった人民にとつては自由を全うすることは難しい」というサブタイトルは、マキャベリの言葉に由来するものである。さて、興味深いのは、その四二ページにある次の部分である。
終戦の年〔一九四五〕の十一月、「終戦事務のため出頭ありたし」という電報を受取つた私は、超満員の列車で、機関車にすがつてようやく東京に出ていつた。ところがその頃まだ新嘗祭〈ニイナメサイ〉という祭日〔一一月二三日〕があつて発信者の役所は誰も登庁していない。あちこち訊ねた〈タズネタ〉すえ、東京クラブに間借りしていた終戦連絡事務局でようやくUSSBS(米国戦略爆撃調査団)の質問に応ずるための呼出しだという意昧が解った。
その日ビッソン氏ほか三名の委員は、午後二時から字義どおり一秒の休みもなく真暗くなるまで質問を連発してその能率本位の仕事ぶりをみせてくれたが、日本側の役所が休むことだけは戦勝国以上で、尋ね廻らないと受取つた電報の用向きさえ判りかねるのと洵〈マコト〉に対照的であつた。
これも私の些細〈ササイ〉な個人的経験にすぎないが、二十二年(一九四七)年の七月、国際裁判のタヴェナー検事から求められて、二三回市ケ谷台に出頭したことがある。坂下の表門にMPの補佐らしく日本人の守衛が二人控えていたが、私の言葉などロクに聞こうともせず、押しかぶせるように、
「何の用件だ、誰に会いに来た、この面会用紙に書きこめ」
という調子で、おそらくおなじ思いをさせられた人は多いと想像するが、初めの日、私はチャンギー〔シンガポール〕かマヌス島〔ニューギニア〕に捕われた戦犯の身分かと錯覚を起したくらいであつた。ところがその後ソ連のパセンコ検事から口供書の提示を求められ、GHQの二世中尉の自動車でおなじ正門を出入した時の彼等の態度はまるで別人であつた。占領軍という虎の威を借りて言後道断の振舞いをしたのは通訳とか守衛ばかりでなく、実に堂々たる政府要路〔中枢〕の大官要人はじめ、多くの官僚たちもおなじであつた。国民の前には狼のごとく、占領軍の前では猫よりも卑屈であつた。
高木惣吉がこのように書いてから、すでに六〇年が経とうとしている。しかし、日本では、一般大衆に対しては狼のごとく、権力に対して猫のように卑屈な一部勢力が、いまだに残存しているのという感が拭えない。しかも、昨年から今年にかけては、特にその弊害が目立つように思うのだが、どんなものだろうか。
今日の名言 2012・8・25
◎昔は学校に権威があったが、今はない
東京、五十代の中学校教師の言葉。本日の東京新聞「いじめ―中学教師が語る―」(下)に出てくる。昔は学校に権威があったというが、この「昔」とはいつごろのことだろうか。また、学校に権威があった時代には、いじめはなかったのか。それとも、単に表面化しなかっただけなのか。現場にある教師にこそ、徹底した議論と透徹した認識を望みたい。