礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岡田首相を救出して非難・迫害された小坂憲兵曹長

2012-08-10 05:23:29 | 日記

◎岡田首相を救出して非難・迫害された小坂憲兵曹長

 昨日に続き、小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の内容を紹介する。
 以下は、同書の第三部「二・二六事件秘史」の一「昭和の梶川与惣兵衛」の主要部分である(六六~六八ページ)。

 昭和十一年二月廿六日、叛乱軍三百余名の襲撃を受けて、岡田首相が射殺されたと云う事は、当時何人も疑わなかった。廿六日事件直後の政府発表も「岡田首相即死」となって居り、国民は挙げて痛惜の念に駆れた〈カラレタ〉。然るに廿九日夕刻内閣が「岡田首相は生存す」と発表した時、国民はこの奇蹟的生存に等しく、その耳を疑った。どうしてあの不意の襲撃を免れたか、どうして三百余名に包囲された重囲〈ジュウイ〉を脱出したか、脱出迄の一昼夜をどうして過したのか、これは日本国中の大きな謎となったばかりでなく、世界的の注目を集め、某外国新聞は賞金付きで、その特種を入手しようとさへしたと、云われていた。
 デマはデマを生み、岡田首相は赤坂の待合で泊っていた、いや二号の処にいた、床下に隠れていた、棺桶の中に入れて出した、とか騒々しい事であった。そこで福田〔耕〕秘書官は、三月五日に至って、脱出の一部を内外の新聞記者に発表して、このデマの一掃に努めたのである。
 岡田総理の救出に、私〔小坂慶助〕がその主役を勤めた事が判ると、憲兵部内でも、轟々〈ゴウゴウ〉たる非難の声が捲き起った。
 当時皇道派は、軍内に隠然たる一大勢力を有していた。その精神は憲兵将校以下の頭にも深く侵透し、元老、重臣、既成政党、財閥の巨頭連中に対しては、彼等〔皇道派〕と同じ考へを持っているものが多勢いた。従って之等〈コレラ〉を始め、英米を蛇蠍〈ダカツ〉の如く嫌った極右団体の連中は
「親英米派の巨頭岡田敬介輩を救出するとは以っての外だ! 生残った事を発見したなら其の場で射ち殺すべきである」
 と云うのである。亦、自己を犠牲にして厥起〈ケッキ〉した彼等の目的を達してやるのが、武士の情〈ナサケ〉である。
「小坂と云う奴は、武士の情を知らぬ、昭和の梶川与惣兵衛〈カジカワ・ヨソベエ〉だ」
 と正面切って、面罵〈メンバ〉する将校も現われた。併し私としては、固い信念の下に取った行動であって、如何〈イカ〉なる非難も迫害も、甘んじて受けた。【中略】
 総理救出の憲兵隊の褒賞〈ホウショウ〉が亦、変なものであった。逃亡兵一人逮捕しても、河中に落込んだ子供一人を救助しても賞状と金一封(内容五十銭か一円程度)が授与され、憲兵隊の機関誌月刊「憲友」に揚載される事になっていた。これだけ全国的に衝動を与えた大事件に対し、派閥関係のない厳正中立の岩佐〔禄郎〕司令官の賞状一本限りで終りである。而も〈シカモ〉「憲友」にはその賞状授与すら掲載して呉れなかった。如何に憲兵部内に皇道派の勢力が侵透していたかが窮い知る事が出来る。【後略】

 一国の首相を救出した憲兵が、そのことによって、「非難」あるいは「迫害」を受けたというのである。まことに、常軌を逸した時代だったというほかはない。
 なお、老婆心から、若干の注釈を加えておく。「皇道派」というのは、陸海軍内の派閥のひとつで、二・二六事件を起こした側である。
 梶川与惣兵衛というのは、いわゆる「忠臣蔵事件」の発端となった松の廊下での刃傷事件の際、「殿中でござる」といって、浅野内匠頭〈アサノタクミノカミ〉を制した武士(幕府の御広敷番〈オヒロシキバン〉)。当時、「武士の情を知らぬ」と非難されたという。
 ここで、「忠臣蔵」と「二・二六事件」が結びついてしまうのだが、もちろん今、そこまで話を広げることはできない。

今日の名言 2012・8・10

◎誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指す

 昨9日に、政府の自殺総合対策会議が決定した自殺総合対策大綱の見直し案にある言葉。本日の日本経済新聞より。今になってようやく、日本も、そういう社会を目指す国になったようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする