◎雑誌『ことがら』と発行にともなう実務
昨日のコラムで、雑誌『ことがら』の「規約」を紹介した。その「7、」には、「寄稿者は雑誌発刊に必要な作業おこない雑誌の頁数におうじた費用を支払う」という文言があった。同誌が発行されていた当時、この規定にともなって、実際にどのような「実務」がなされていたのか。本日は、この点を紹介してみよう。
『ことがら』という雑誌の提案者であり、また事実上の主宰者であった小阪修平は、同誌の終刊号で、次のように述べている(八二~八三ページ)。
そういうわけで、3号までは、版下〈ハンシタ〉作成の日というのが毎号につき一日か二日あった。編集後記や雑記事をタイプで打ち、指定をやり、写植や今打ったばかりの雑記事をはっつけ、カットを描く。ところで編集というものを知らない烏合〈ウゴウ〉の衆が集まってやるのだから、非能率きわまりない。だが、それはそこそこ雑誌が出来ていく薫りにふれるてんやわんやであったとわたしは思う。
そして、雑誌が刷り上がった週の日曜日には、最初は高円寺のアパート、印刷所がわたしの家〔国立市〕のすぐ近くのゴトー印刷に移った3号以降はわたしの家に編集委員が集まり、ここでもてんやわんやがくりかえされた。まず、定期購読者への発送などの雑務をやり、次に各人が直販(個人売と直販の書店おろし)でもち帰った部数と、売れずに返還する部数の精算をやり、わたしがこれも時間がないせいでヒス気味になりながら、複雑な負担金の精算をやる。『ことがら』の会計はわたしが担当していたのだが、この計算たるや、次のような代物〈シロモノ〉であった。『ことがら』は各号で分担比率を出していた。分担比率は、総頁数から、目次やお知らせなどをさっぴき、残りを自分が書いた頁と自分が金を負担して書いてもらった頁の和で(もちろん、外部から自己負担で掲載した人はその人の分を)割り、六分の一頁を一単位として各人の分担比率を割り出す。雑誌の売上が現金として入ってくるのは随分おくれるので、前々号と前号の収益を分担比率に応じて分けもどす。総経費を寄せ、出来上がった号の分担金を計算する。直販はなかなか回収できないことが多いのだが、直販の金銭的な精算。出来上がった号の経費の立替えと、さまざまな経費の総計をやる。そしてその場にいない人間への立替えや、払い戻しのほうが多かった場合のプールなど、もろもろの金銭関係をひとつの貸借対照表にしあげ、精算をするのである。そして各人の直販部数をノオトに記載し、直販と分配の部数を渡す。むろん、時間がなくてあせっているから計算間違いを往々にしてやってしまう。そういうてんやわんやで、用意している料理と酒もそそくさながらに散会するのが、つねであった。一度、出来上がった雑誌を前に全員で、印刷したばかりの雑誌の香りを寿ぎ〈コトホギ〉ながらゆっくり酒を飲みたかったというのがわたしの『ことがら』にたいする最大の悔いである。こういうことはどんぶり勘定でやったらもっと楽なことだったが、そういうことをあえてやるのが『ことがら』の平等主義のタテマエ、というより『ことがら』の関係を実質的につくってきたスタイルであった。
あと、『ことがら』は各人に拒否権を与えた全員一致制の組織であったことは付け加えておかねばならない。ともかく、『ことがら』は手間がかかる組織であった。
なぜ、小阪は、同誌の終刊にあたって、このような「実務」的なことを、こまごまと書き残したのであろうか。これは一方では、雑誌『ことがら』に対する深い「思い入れ」の表白であり、他方では、こうした「手間がかかる」雑誌ゆえに、その維持が困難になったという釈明であったと思う。と同時に、こうした「雑務」から解放されるという安堵感を、はからずも表出したという面もあったと憶測する。
今日の名言 2012・8・27
◎問題は賠償金や特許ではなく、価値観だ
サムソン電子との特許訴訟で、今月24日に勝訴したアップルのコメント。本日の日本経済新聞より。あくまでも記事を読んでの印象だが、アップルの価値観は、「コピーは許さない」という言葉に置き換えられるのではないか。