◎自分らが支那でやって来たことを思い……
大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十九日と二十日の日記を紹介する。表記は、文春文庫版のとおり。
八月十九日 炎暑
英霊に捧げるの原稿を書き上げ夕方より週刊不死鳥にかかる。木原岸来たりビールを飲む。東條の甥が焼打に参加し二重橋前で割腹したと云う話と東條に切腹をすすめ肯かれぬので死んだという話、いや義弟がそうしたという話、東條は満洲に行っているという話など東條伝説またもや賑やかである。死なせるのは惜しい、竹槍で突かせろと云う者さえある。露軍が新京や京城に入ったという。関東軍は心配ほどもなく苦もなく後退したのである。出井の家でケンちゃんが孝子をなぐったとかで揉めている。穏やかに計らえと忠告してやる。
〔横領賀鎮守府は冷静に「開城」の準備。海軍工廠で作業しているので何かと思うと鍋釜を作って工員に配布しているそうである。しかし部隊は威張り返って戦争準備中。〕
八月二十日 晴 暑気続く
週刊の続きを書く。あと二回の約束なれど時局柄面倒臭く、この回で打切ることにしどうにかまとめて了う。暑い日である。吉野君の話で材木座あたりでは米軍が小さい子供を軍用犬の餌にするとて恐怖している母親が多いという。無智と云うのではなくやり切れぬことである。敵占領軍の残虐性については軍人から出ている話が多い。自分らが支那でやって来たことを思い周章しているわけである。日本がこれで亡びないのが不思議である。土佐沖と沖縄で敵艦隊へ突込んだ件がニミッツを怒らせ、上陸は早かろうと木原君が東京から聞いて来る。停戦命令の出たあとに卑怯な行動なのである。しかしやった奴は忠義でやったと思っている。悲しいことである。指揮者は少将だと云う。国民がその為に苦しむことになる。
今日出海の書生の話に、逗子あたり重機〔重機関銃〕をかついでよろよろした水兵が戦争はこれからだぞと町を呼号して通る由。沢寿郎の談では佐助あたりでは一戸に十人宿泊していた部隊が二十人ぐらいとなりさかんに気焰をあげているという。集団的に生活していることで狂乱の調子を合せるよりほかはないらしい。応召の者を帰し若い者だけらし。宇都宮あたりは兵に毛布や米をやりどんどん帰国させているそうである。松本から帰った木下利玄の息子の話では、大詔を聞き部隊長はにこにこしすぐに解散の手続を取ったと。農民は叛軍のビラを見ても馬鹿にしている。千葉県だけが連日午前三時に起され壕を掘りに出たことで、百姓たちがこれを無駄にするのかと怒って猛り立っているそうである。出井の騒動の続きよし子来たり泊る。
明日は、話題を変える。
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