◎房総半島の山にはウスという怪物が住むか
金田一春彦(1913~2004)の『日本語』(岩波新書)には、旧版と新版とがある。旧版は、1957年(昭和32)1月に出た岩波新書青版。新版は、1988年(昭和63)3月に出た岩波新書「新赤版」で、上下二巻からなる。両者の異同を確認したわけではないが、新版は、旧版を全面的に書き改めたものという。
金田一は、旧版『日本語』の7ページで、安田徳太郎『万葉集の謎』(カッパブックス)に言及している。『万葉集の謎』は、1955年(昭和30)1月に出て、たちまち、ベストセラーとなり、「日本語」に対する読書人の関心を高めた。金田一の『日本語』は、そうしたときに着想されたものか。
大野晋『日本語の起源』(岩波新書)にも、旧版と新版とがある。旧版は、1957年(昭和32)9月に出た岩波新書青版。新版は、1994年(平成6)6月に出た岩波新書「新赤版」。こちらの「新版」は、名ばかりであって、「旧版」とは別の本と考えたほうがよい。
旧版『日本語の起源』を書くにあたって、大野は、安田の『万葉集の謎』を強く意識していた。同時に、先行した金田一の『日本語』も意識していたはずである。
さて、金田一春彦の旧版『日本語』には、「日本語のアクセント」と題する項がある。ページでいうと、88~95ページ。本日以降、何回かに分けて、この項を紹介してみたい。文中、太字は、原文のままである。
日本語のアクセント 次に、日本語の拍は、連続して一語を構成した場合、拍の間の高低関係が一定している。たとえば、東京語で、ハ‐シという拍の連続が、「箸」を意味するときは、〔ハシ〕とハを高く発音し、「橋」なら〔ハシ〕とシの方を高く言う。けっしてこの関係を逆にはしない。一方、京都語となると右の高低関係は逆になるが、これはこれで一定していて、変らない。いわゆる〈日本語のアクセント〉がこれである。
日本語のように、個々の語について相対的な高低関係がきまっている国語を〈高低アクセント〉(pitch accent)の国語と呼ぶ。これは、英語、ドイツ語、イタリー語、ロシア語などのアクセント、〈強弱アクセント〉に対するものである。
高低アクセントは、日本語のほかに、シナ語(特に南方のもの)、タイ語、アンナン語、ビルマ語等の東南アジア諸語、中部アフリカにひろがるスーダン諸言語、大部分のパンツー語(D. Jones:Phoneme)、ミクステコ語、マザテコ語などのアメリカインディアン語(K. L. Pike:Tone Languages)などに見られるという。ヨーロッパ語では、今は、セルボ・クロアチア語、リトワニア語、スウェーデン語、ノルウェー語など少数の言語に見られるだけであるが、古代のギリシァ語、ラテン語が高低アクセントの言語だったと言われる。
日本語のアクセントは、高低アクセントである。強弱アクセントではない。これは誤解してはいけない。このことは、決して日本語のふだんの会話に強弱変化がないということを意味しない。感情の激した会話では、やはり強弱の変化があらわれる。ただし一つひとつの単語には、高低変化だけしかきまっていないのである。だから、全般的には、日本人の話しぶりは高低変化の方がいちじるしく聞える。すなわち、小泉八雲がかつて批評したように日本語は歌のようである。また、日本語の歌を作曲する場合、リズムのとり方には何も束縛がないが、歌詞のアクセントに注意してメロディーをつけないと、意味がとりにくかったり、まちがえてとられたりする。
戦争中、ラジオを聞いていたら、「歌で山路の……」という歌が聞えてきた。この時勢に珍しくのどかなことだと思っていたら、「討たで止まじの……」という歌詞なのを、ウタデヤマジノと作曲されていることから聞きまちがえたことを知った。いつか雑誌『キング』に市河三喜【いちかわさんき】博士夫人がチ供のころの思い出を書いていたが、「海のあなたにウスガスム山は上総【かずさ】か房州か」という鉄道唱歌の一節を、房総半島の山にはウスという怪物(?)が住んでいるのかと思ったという。これはそこにウスガスムというフシがついているためにちがいない。【以下、次回】
「ウスガスム」は、霞(かすみ)が薄くたなびいているの意である。
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