◎服部之総の随筆「武鑑譜」を読む
服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)の紹介を続ける。
同書には、計10本の随筆が収められているが、その九番目に置かれているのは、「武鑑譜」である。これを前後二回に分けて紹介したい。
武 鑑 譜
徳川時代を通じておこなはれていた「武鑑」について、いまの若い人たちは知ることが少いであらう。戦争まへまでは、古書展でもさまで珍しがられず、古地図などにくらべて値も安かつた。銀座の松坂屋まへの露店に、十数年古本をあきなつてゐる山崎さんなどは、この方面が好きで、いつも何冊か仕入れてゐたが、値は特別に安かつた。もつともそれは、わたしの漁る〈アサル〉ものが珍品として値の高い古い時代のものでなく、当時ざらにあつた幕末から明治初年のものにかぎられてゐたせいもあらう。終戦後も、山崎さんの露店は、嬉しいことにそのままもとの位置に復活してゐるが、幕末ものさへすでに珍奇となつた。
一口に武鑑といふが、大名や幕府役人の全部について巨細〈コサイ〉にしるした四冊ないし五冊ものの大成武鑑だの慶応武鑑だのと銘うつたもの、それの省略懐中本〈カイチュウボン〉で二寸に四寸五分ほどの一冊本、同じ型で頁数八九十丁、慶応二年須原屋茂兵衛〈スハラヤ・モヘイ〉版「袖玉〈シュウギョク〉武鑑」といふのは、大名については記さず幕府官僚のみについての武鑑である等、いろいろの種類があり、版元も、日本橋一丁目の上記須原屋茂兵衛は有名だが、横山町一丁目の出雲寺万治郎〈イズモジ・マンジロウ〉以下この道の老舗がある。
ところで、さきに幕末から明治初年にかけての武鑑と書いたのを奇異に思はれたむきもあらう。版籍奉還がおこなはれた明治二年七月までは、幕府はなくなつて朝廷が旧幕領を直轄したといふだけで、諸大名は旧体制のまま残つてゐたのであり、版籍奉還ののちになつても、大小名の名目が知藩事〈チハンジ〉とかわり独立の封建領主が形ばかり天皇制の官僚となつたといふまでのことである。この時代の珍重すべき武鑑は――もはや武鑑とはいはず藩銘録と題されてゐるのだが、わたしの手もとにあるのは明治三庚午年初春荒木氏編輯、御用書師和泉屋市兵衛〈イズミヤ・イチベエ〉、須原屋茂兵衛共同出版の、袖珍〈シュウチン〉十九丁ものである。
それは藩名をイロハ順に編別したもので、イの一番は厳原(イツハラ)藩、対馬十万石の宗従四位〈ソウ・ジュシイ〉〔宗重正〕、むろん徳川時代に厳原などといふ藩名はなかつた。以前の長州藩松平大膳大夫はここでは山口藩毛利従三位〈モウリ・ジュサンミ〉〔毛利敬親〕であり、前将軍家は、シの部の筆頭に静岡藩、駿河七十万石徳川従三位〔徳川家達〕とあるのがそれだ。武鑑で大名は壱岐守〈イキノカミ〉、伊賀守〈イガノカミ〉、周防守〈スオウノカミ〉、であつたものが、ここではすべて正二位〈ショウニイ〉から従五位〈ジュゴイ〉にいたる廷臣としての序列でならんでゐる。武鑑の御老中の欄に交替した譜代大名はおおむね従五位のならび大名と化しており、正二位は広島の浅野〔長勲〕ただ一人、かれは討幕派諸大名中の長老である。薩長〈サッチョウ〉は従三位、土肥〈ドヒ〉は従四位、これに対して、この「藩銘録」には出てこない中央新官僚政府の指導者たちは、版籍奉還直後明治二年七月の官制改革いらい、たとへば大隈〔重信〕は、「民部大輔〈タイフ〉兼大蔵大輔従四位守〈ジュシイシュ〉菅原朝臣〈スガワラノアソン〉重信」と下手くその筆で署名したのである。
「馬鹿にしている!」
と藩銘録のお歴々はつぶやいたにちがいない。このとき彼等はおしなべて華族といふ身分を与へられたのであるが、そのかわりにそれまで彼等が中央政治に参与する仕組であつた「上局会議」も廃止され、政治の面では完全な無力者となつてしまつてゐた。「知藩事」での地位さへも、この藩銘録のでた明治三年の十一月には、一同東京居住を命ぜられたから、廃藩をまつまでもなく名目だけのものとなつたのである。〈170~173ページ〉【以下、次回】
服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)の紹介を続ける。
同書には、計10本の随筆が収められているが、その九番目に置かれているのは、「武鑑譜」である。これを前後二回に分けて紹介したい。
武 鑑 譜
徳川時代を通じておこなはれていた「武鑑」について、いまの若い人たちは知ることが少いであらう。戦争まへまでは、古書展でもさまで珍しがられず、古地図などにくらべて値も安かつた。銀座の松坂屋まへの露店に、十数年古本をあきなつてゐる山崎さんなどは、この方面が好きで、いつも何冊か仕入れてゐたが、値は特別に安かつた。もつともそれは、わたしの漁る〈アサル〉ものが珍品として値の高い古い時代のものでなく、当時ざらにあつた幕末から明治初年のものにかぎられてゐたせいもあらう。終戦後も、山崎さんの露店は、嬉しいことにそのままもとの位置に復活してゐるが、幕末ものさへすでに珍奇となつた。
一口に武鑑といふが、大名や幕府役人の全部について巨細〈コサイ〉にしるした四冊ないし五冊ものの大成武鑑だの慶応武鑑だのと銘うつたもの、それの省略懐中本〈カイチュウボン〉で二寸に四寸五分ほどの一冊本、同じ型で頁数八九十丁、慶応二年須原屋茂兵衛〈スハラヤ・モヘイ〉版「袖玉〈シュウギョク〉武鑑」といふのは、大名については記さず幕府官僚のみについての武鑑である等、いろいろの種類があり、版元も、日本橋一丁目の上記須原屋茂兵衛は有名だが、横山町一丁目の出雲寺万治郎〈イズモジ・マンジロウ〉以下この道の老舗がある。
ところで、さきに幕末から明治初年にかけての武鑑と書いたのを奇異に思はれたむきもあらう。版籍奉還がおこなはれた明治二年七月までは、幕府はなくなつて朝廷が旧幕領を直轄したといふだけで、諸大名は旧体制のまま残つてゐたのであり、版籍奉還ののちになつても、大小名の名目が知藩事〈チハンジ〉とかわり独立の封建領主が形ばかり天皇制の官僚となつたといふまでのことである。この時代の珍重すべき武鑑は――もはや武鑑とはいはず藩銘録と題されてゐるのだが、わたしの手もとにあるのは明治三庚午年初春荒木氏編輯、御用書師和泉屋市兵衛〈イズミヤ・イチベエ〉、須原屋茂兵衛共同出版の、袖珍〈シュウチン〉十九丁ものである。
それは藩名をイロハ順に編別したもので、イの一番は厳原(イツハラ)藩、対馬十万石の宗従四位〈ソウ・ジュシイ〉〔宗重正〕、むろん徳川時代に厳原などといふ藩名はなかつた。以前の長州藩松平大膳大夫はここでは山口藩毛利従三位〈モウリ・ジュサンミ〉〔毛利敬親〕であり、前将軍家は、シの部の筆頭に静岡藩、駿河七十万石徳川従三位〔徳川家達〕とあるのがそれだ。武鑑で大名は壱岐守〈イキノカミ〉、伊賀守〈イガノカミ〉、周防守〈スオウノカミ〉、であつたものが、ここではすべて正二位〈ショウニイ〉から従五位〈ジュゴイ〉にいたる廷臣としての序列でならんでゐる。武鑑の御老中の欄に交替した譜代大名はおおむね従五位のならび大名と化しており、正二位は広島の浅野〔長勲〕ただ一人、かれは討幕派諸大名中の長老である。薩長〈サッチョウ〉は従三位、土肥〈ドヒ〉は従四位、これに対して、この「藩銘録」には出てこない中央新官僚政府の指導者たちは、版籍奉還直後明治二年七月の官制改革いらい、たとへば大隈〔重信〕は、「民部大輔〈タイフ〉兼大蔵大輔従四位守〈ジュシイシュ〉菅原朝臣〈スガワラノアソン〉重信」と下手くその筆で署名したのである。
「馬鹿にしている!」
と藩銘録のお歴々はつぶやいたにちがいない。このとき彼等はおしなべて華族といふ身分を与へられたのであるが、そのかわりにそれまで彼等が中央政治に参与する仕組であつた「上局会議」も廃止され、政治の面では完全な無力者となつてしまつてゐた。「知藩事」での地位さへも、この藩銘録のでた明治三年の十一月には、一同東京居住を命ぜられたから、廃藩をまつまでもなく名目だけのものとなつたのである。〈170~173ページ〉【以下、次回】
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