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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

シャンポリオンの研究は二十年も続いた

2024-10-18 00:03:32 | コラムと名言
◎シャンポリオンの研究は二十年も続いた

 石原純編『世界の謎』(新潮社、1936)から、第三編の第一部「謎の文字」を紹介している。本日は、その三回目。第四章は割愛し、第五章および第六章を紹介する。

 四、学者はどうして古代のことを知るか【略】

 五、希望ははかなく消えた
 前にものべたやうに、エジプト文字が発明されたのは、今から五千年ばかり前で、エジプトが王国となつて間もなくであつた。それから、エジプトが外国人の侵略をうけて亡びるまで、二千五百年ばかりの年月があつた。外国に征服された後にも、エジプト文字が使はれてゐたことは、ロゼッタ石【ストーン】がいゝ證拠である。これほど長い間使はれてゐた文字であるから、それを記した遺物は、もちろん数へ切れないほど沢山ある。
 多くの石碑、建物の壁、器物などに、絵と一しよに、略画のやうな模様がいつぱい彫【きざ】みこまれたり、描かれたりしてゐる。ライオン、鷹、蛇、植物、そのほか四角とか円【まる】とか、奇妙な符号がたくさんについてゐる。これは、前にいつたヒエログリフィックといふエジプト文字である。
 かういふ石碑とか建物とか器物などに記されたもの以外に、エジプト人は紙にも字を書いた。かなり古い昔に、彼等は一種の紙を発明してゐたのである。それは、ナイル河の附近の沼地に生えてゐる蘆【あし】のやうな草から作つたもので、これに一種のインキで字を書いたのである。この草の名はパビルスといふ。今日、英語で紙をペーパ一といふが、この言葉の起りはパビルスから来てゐるのである。インキはどんなものを使つたかといふと、植物からとつた粘り気のある液を水に混ぜ、壺などを焔【ほのほ】にあぶつてとれる煤【すゝ】をこれに入れて作つたインキであつた。そして、蘆の茎【くき】を削つて先を尖【とが】らせたペンで、パピルスの上に横書に字を書いたのである。一冊の本になるほどの分量のものは、パピルスを継ぎ合はせて巻物の形にした。かういふパビルスの巻物は、今もなほ相当たくさん残つてゐる。
 しかし、前にも話した通り、エジプト文字の読める人は今から千数百年前に死絶えてしまひ、これらの巻物も、中に何が書いてあるか全くわからなくなつてゐたのである。もし、それが読めたなら、エジプトの研究がどれだけ進むかわからない。どれだけエジプトの謎が解けて来るか知れないのである。
『今やこの秘密を開く時が来た。』――ロゼッタから掘出された碑文を前にして、学者たちは喜び勇んで、さう考へた。もちろん、彼等は早速、下の段のギリシャ文と比べ合はせつゝ、上の段の文字を読み解くことに取りかゝつた。
 ところが、やつて見ると彼等はびつくりした。さうやすやす解ける謎ではなかつたのである。第一、この石碑は散々に傷ついてしまつてゐる。肝心なヒエログリフィックの部分は半分欠け落ちてしまつてゐるし、残りの半分さへ一行として完全なものがない。ヒエログリフィックのどの字が、ギリシャ語のどの字にあたるのか、見当のつけやうがなかつた。無論始めから、わけなく出来ることゝは考へてゐなかつたから、学者たちもいろいろと努力して見た。多くの学者が入れかはり立ちかはり、何とかしてヒエログリフィックを読み解かうとつとめたけれど、一人として成功する者はなかつた。たゞ僅かに、碑文のなかにある楕円形の枠にかこまれてゐる文字が、どうやら王様の名前らしいといふ事だけ見当がついた。ほかの碑文やいろいろな彫刻物などを比べて見て研究した結果、たゞこれだけの事がまづ確からしいとわかつたのである。そのほかには全く何にも得【う】るところがなかつた。
 今度こそは千数百年来の謎がとけると喜んだ学者たちの期待は、かうして空しくなつてしまつた。一旦はいきいきとみんなの心にさしこんだ希望の光は、とうとうはかなぐ消えてしまつた。エジプト文字も、従つてまた古代エジプトの事も、相変はらず神秘な謎のなかに包まれてしまつたのである。ロゼッタ石は、ほかの遺物と同様に、たゞ不思議な遺物として眺められるばかりで、謎を解く鍵となることがつひに出来なかつた。いつとはなしに、この文字を研究しようとする人も少なくなり、二十年の歳月が過ぎていつた。そして、エジプト文字の秘密は、そのまゝ、永遠の秘密となつてしまふのかと思はれた。
 この時あらはれたのが、ジャン・フランソア・シャンポリオンである。彼は学者たちが諦めた問題を再びとりあげ、もう一度それを解かうとして、勇敢にも立ちあがつたのであつた。

 六、シャンポリオンの苦心
 ジャン・フランソア・シャンポリオンは、一七九〇年、南フランスのフィジャックといふ町に生まれた。一七九〇年といへば、ロゼッタ石が発見される九年前である。だから、ロゼッタ石が学界の問題となつた時には、ちやうど十歳だつたわけである。学者たちの大問題が僅か十歳の少年を奮発【ふんぱつ】させるわけもないが、一世に名を轟かした英雄ナポレオンのエジプト遠征の話や、それに伴つて耳に入るエジプトのさまざまな不思議は、少年の心にも大きな影響を与へたに違ひない。ごく幼い頃から、古い昔の言葉や歴史の話が好きだつたシャンポリオンは、十二三歳の頃、もう古代エジプトの研究に志を立てゝゐたといふことである。
 かうして、すでに少年の頃から、彼は手に入る限りエジプト文字の写しなどを集め、何とかその秘密を解かうと苦心してゐた。グルノーブルで学生々活をしてゐる間も、後にパリに来てからも、絶えず古代エジプトの研究を続けて来た。別してその文字の研究には、人知れぬ苦心を積んで来た。もちろん、その頃には、彼もとうにロゼッタ石の問題を知つてゐた。恐らくロゼッタ石の謎がつひに解けなかつたといふことが、却つて彼の研究心を刺戟し、ますますエジプト文字の研究に深入りさせたのであらう。彼の研究は二十年も続いたのである。
 しかし、あらゆる彼の苦心をあざ笑ふやうに、エジプト文字は少しもその秘密を明さうとはしなかつた。どんなに努力しても、どんな方法をとつても、所詮この秘密を明らかにすることは出来ないのか。さすがのシャンポリオンも幾度か失望に陥つて、長年の研究を捨てようと思つたことも一度や二度ではなかつた。だが、結局、彼は子供の時からの問題を抛り出さなかつた。何度も絶望に陥りかけながらも、諦めずにその研究を続けていつた。
その努力は無駄ではなかつた。とうとう彼の苦心が実を結ぶ時が来た。一八二二年、彼が数へ年の三十三歳の正月、つひに最後の鍵がみつかつたのである。 彼の喜びは、恐らく私たちの想像も及ばないほどであつたらう。一旦、この最後の手がかりがつかまると、今まで利用できなかつたロゼッタ石がたちまちこの上もなく有力な道具となり、千余年の人類の謎、エジプト文字も、もつれた糸のほぐれるやうに、端から順々にとけてゆくことになつたからである。
それでは、この最後の手がかりとなつたものは何であつたのだらう。【以下、次回】

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