◎服部之総著『moods cashey』(真善美社)を読む
先日、神保町の某古書店の均一棚から、服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)を掘り出した。古書価100円。この本は、1947年(昭和22)11月に初版が出ているが、今回、私が入手したのは、1948年(昭和23)2月に出た再版である。
服部之総(はっとり・しそう、1901~1956)は、昭和期の歴史学者、『黒船前後』(1933)などの著作で知られている。
それにしても、「moods cashey」とは、何とも妙な、何とも難しいタイトルを付けたものだ。このタイトルでは売れないと見たのか、再版のカバーでは、タイトルが「服部之総/歴史随筆集/開港前後をめぐる」となっている(初版に、カバーがあったかどうか、そのタイトルがどうなっていたかは不明)。ちなみに、本体の表紙のタイトルは、初版・再版とも、「歴史随筆集/moods cashey/服部之総」、扉のタイトルは、初版・再版とも、「歴史随筆集/moods cashey/服部之総」、再版の奥付における書名は「moods cashey」である(初版の奥付には書名がない)。
同書には、計10本の随筆が収められている。その筆頭に置かれているのは、「Moods cashey」である(Mが大文字になっている)。本日以降、何回かに分けて、この随筆を紹介してみよう。
Moods cashey
How much dollar?を『ハ・マ・チ・ド・リ』と、居留地の人力車夫仲間できめてしまふ。かうしてできた実用英語がピヂン・イングリッシュ〔pidgin English〕である。十九世紀の世界を、支那の開放と日本の開国で円形に完成した者は英語国民であつたから、香港、上海、横浜と逐次つくられていつた外人セツルメントで、土地の支那人や日本人との間で用ひられる実用国際語も、英語を基調としたことは当然である。
これにたいしてピヂン・ジャパニーズとでもいふようなものが、居留地の外人のあいだでうまれることも当然である。英語なまりで理解された日本語であり、実用国際語のヨコハマ版であり、欧米人の間で Yokohamaese またはヨコハマ・ジャパニーズと呼ばれたものである。進駐軍の兵士が Oh heigh yoh!〈オハヨー〉と発音するたぐひである。
そのようなピヂン・ジャパニーズは、役人との接触からでなく民衆との日常的接触からうまれてくるのだから、さしあたつてはハリス公館のおかれた下田港で誕生したであらうが、そのための一冊のパンフレットができるまで体系化されるのは、なんといつても横浜の居留地が開かれたのちのことである。安政条約が規定した三港開港の時日は、一八五九(安政六)年七月一日とされてゐた。その前日、ハリスは初代横浜米国領事ドル〔Dorr〕を従へて下田から神奈川本覚寺に移つてゐる。神奈川の代りに幕府が提供した横浜村の居留地の開港式に列した外人は四十四名で、米商館はウォルシュ・ホール商会〔Walsh, Hall and Company〕、英商館はジャーデイン・マヂソン〔Jardine Matheson〕およびデント商会〔Dent and Company〕に代表され、いずれも上海で売込んだ古強者〈フルツワモノ〉から成つてゐた。〈1~3ページ〉【以下、次回】
先日、神保町の某古書店の均一棚から、服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)を掘り出した。古書価100円。この本は、1947年(昭和22)11月に初版が出ているが、今回、私が入手したのは、1948年(昭和23)2月に出た再版である。
服部之総(はっとり・しそう、1901~1956)は、昭和期の歴史学者、『黒船前後』(1933)などの著作で知られている。
それにしても、「moods cashey」とは、何とも妙な、何とも難しいタイトルを付けたものだ。このタイトルでは売れないと見たのか、再版のカバーでは、タイトルが「服部之総/歴史随筆集/開港前後をめぐる」となっている(初版に、カバーがあったかどうか、そのタイトルがどうなっていたかは不明)。ちなみに、本体の表紙のタイトルは、初版・再版とも、「歴史随筆集/moods cashey/服部之総」、扉のタイトルは、初版・再版とも、「歴史随筆集/moods cashey/服部之総」、再版の奥付における書名は「moods cashey」である(初版の奥付には書名がない)。
同書には、計10本の随筆が収められている。その筆頭に置かれているのは、「Moods cashey」である(Mが大文字になっている)。本日以降、何回かに分けて、この随筆を紹介してみよう。
Moods cashey
How much dollar?を『ハ・マ・チ・ド・リ』と、居留地の人力車夫仲間できめてしまふ。かうしてできた実用英語がピヂン・イングリッシュ〔pidgin English〕である。十九世紀の世界を、支那の開放と日本の開国で円形に完成した者は英語国民であつたから、香港、上海、横浜と逐次つくられていつた外人セツルメントで、土地の支那人や日本人との間で用ひられる実用国際語も、英語を基調としたことは当然である。
これにたいしてピヂン・ジャパニーズとでもいふようなものが、居留地の外人のあいだでうまれることも当然である。英語なまりで理解された日本語であり、実用国際語のヨコハマ版であり、欧米人の間で Yokohamaese またはヨコハマ・ジャパニーズと呼ばれたものである。進駐軍の兵士が Oh heigh yoh!〈オハヨー〉と発音するたぐひである。
そのようなピヂン・ジャパニーズは、役人との接触からでなく民衆との日常的接触からうまれてくるのだから、さしあたつてはハリス公館のおかれた下田港で誕生したであらうが、そのための一冊のパンフレットができるまで体系化されるのは、なんといつても横浜の居留地が開かれたのちのことである。安政条約が規定した三港開港の時日は、一八五九(安政六)年七月一日とされてゐた。その前日、ハリスは初代横浜米国領事ドル〔Dorr〕を従へて下田から神奈川本覚寺に移つてゐる。神奈川の代りに幕府が提供した横浜村の居留地の開港式に列した外人は四十四名で、米商館はウォルシュ・ホール商会〔Walsh, Hall and Company〕、英商館はジャーデイン・マヂソン〔Jardine Matheson〕およびデント商会〔Dent and Company〕に代表され、いずれも上海で売込んだ古強者〈フルツワモノ〉から成つてゐた。〈1~3ページ〉【以下、次回】
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