礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

矢島文夫、その学問遍歴を語る

2024-10-14 00:03:13 | コラムと名言
◎矢島文夫、その学問遍歴を語る

 数日前、近所の古書店で、矢島文夫著『解読 古代文字への挑戦』(朝日選書、1980)という本を買い求めた。非常に興味深く、また読みやすい本だった。
 矢島文夫(1928~2006)の著書や翻訳書は、これまで、何冊か読んだことがあるが、その人物については、ほとんど知るところがなかった。ところが、本書の「あとがき」において、矢島さんは、みずからの語学遍歴のようなものを語っている。まず、これを引用しておこう。

 一九四五年八月一五日、私は終戦を京城(ソウル)の大学の庭で迎えた。一七歳であった。当時、私は京城大学附属理科教員養成所数学科という、戦時中の特設学校のようなところに在籍していたからだが、これも入学後三カ月ほどで廃校の運命にあった。この年の一〇月ごろ、中国地方の小漁港の仙崎、原爆を受けてまもない広島、バラックの建ち並ぶ東京を経て、父の故郷の栃木県に引き揚げた。
 数カ月後に東京近郊での間借り生活が始まり、私はなんとなく、これからは語学だなと思った。受験をしながら英語の講習会に出たりしてから、東京外語(当時は東京外事専門学校といっていた。現東京外国語学校)のフランス科に入り、以後いろいろな外国語に手を出した。第二外国語としてドイツ語をとり、ラテン語とロシア語は別の学校や講習会で学び、ギリシャ語もどこかですこしやった。
 ある年の外語祭に、マライ語科(のちのインドネシア語科)で古い文献を展示していたが、それがアラビア文字(古いマライ語を表記したもの)を見た最初であるように思う。アラビア語というのをやってみようと思ったが、本格的にやりだしたのは、東京外語を出て学習院大学哲学科に編入学してからで、神田の古本屋で井筒俊彦氏の『アラビア語入門』を見つけて独習を始めた。また、ヘブライ語の自習書を買ってきて、これもひとりでやりだした。私のオリエント諸文字への興味は、このころから生じたといえそうである。もっとも、エジプト象形文字を語学の天才シャンポリオンというフランス人がみごとに解読したという話は、小学生のときに手もとにあった『世界の謎』という本に出ていたのを何回も読み直した記憶があるから、このとき以来のものなのかもしれないが……。
 大学を出てから、ある書店で洋書を扱ったり出版に関係したりして、ことばと文字とは縁が切れず、私の〝語学放浪〟もつづいた。そののち、オリエントの世界に深入りし、十数年にわたって楔形文字の文献と取り組み、そのために必要であったアラビア語やヘブライ語は、いつしか私の専門領域となって、あちこちで教えることにもなった。
 こうして私の関心は、いまでもことばと文字、そしてそれが表わす思與文化、歴史のあたりをゆれ動いている。人類文化史を考え直してみたいというのが私の念願だが、その一つの軸として文字の問題があるように感じている。【以下、割愛】

 若干、注釈する。「京城大学附属理科教員養成所数学科」というのは、初めて聞教育機関である。いつ開設されたのであろうか。卒業生は出しているのだろうか。
 敗戦後、朝鮮半島を発った矢島文夫さんは、山口県大津郡の先崎港に上陸し、そこから、先崎線、美祢線、山陽本線、東海道本線などを乗り継いで、父の故郷・栃木県に向かったものと思われる。
 ここで「父」とは、科学史家として知られる矢島祐利(すけとし)のことで、その出身地は、栃木県安蘇郡界村(さかいむら)であった。
 東京外国語大学の前身である「東京外国語学校」は、1944年(昭和19)4月に、「東京外事専門学校」と改称し、修業年限を三年に短縮した。1949年(昭和24)5月、東京外国語大学の設立に伴い、さらに「東京外国語大学東京外事専門学校」と改称。1951年(昭和26)3月を以て廃止。矢島さんが、東京外事専門学校に入学した年月、卒業した年月は不詳。
 学習院大学に編入学した年月、卒業した年月は確認していない。学習院大学卒業後、「ある書店で洋書を扱った」とあるが、この書店とは、紀伊国屋書店のことである。
 矢島さんは、小学生のとき、『世界の謎』という本で、フランスのシャンポリオンが、エジプト象形文字を解読した話を読んだという。調べてみたところ、この『世界の謎』というのは、日本小國民文庫の一冊、石原純編『世界の謎』(新潮社、1936年5月)のことだった。【この話、続く】

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