◎詩人の蘇東坡に「大秦寺」と題せる詩がある
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その五回目。
申すまでもなくメシヤ教といふのはキリスト教のことです。キリストといふのはギリシヤ語で、メシヤといふのはシリヤ語及びへブライ語であります。共に『油をそゝがれたるもの』といふ意味であります、メシヤ教といふのをその時の支那では『彌尸訶教』といふ字を使つて居るのです。而してこの景浄と般若との事件は丁度此の景教碑文の立つた二三年位後の話であつたと思はれます。何故かと申しますと般若法師が長安に到着しましたのが建中三年(七八二年)です。而して大乗理趣六波密多経の新訳が般若法師によりて完成したのが貞元五年(七八八年)です。故に景浄と般若との六波密多経共訳事件は西暦七八二年から七八五年頃までの事件であつたと思はれます。話は元に戻ります。前述いたしました通り、高楠博士の発見に依つて『大泰寺僧景浄』といふ者の正体が判つて来たのです。而して景教碑文といふ物が決して後世の偽作でないと云ふことになります。仏教の方の文献にこの景教僧景浄の名前が出て居るのみならず、この景教僧が六波羅密多経を印度人である般若法師と一緒に翻訳をして居つたといふのです。当時の景教僧の活躍振りまでも判つて来たのです。この石碑が決して嘘のものでないといふことが判つて参りました。これが明治二十八九年の頃であつたと記憶して居ります。それから此の碑文の中に『大徳及烈』といふ景教の坊さんの名が出て居ります。この『及烈』といふ大徳の名前を故桑原〔隲蔵〕博士が支那の書物の中に於て発見せられたのであります。それは桑原博士の論文集『東洋史苑』中に載つて居ります。『ネストル教の僧及烈に関する記事』と題せられたる論文はそれです。
斯の如くに我が高楠博士や桑原博士等の御発見や御発表に依つて、この景教碑は西洋の人等が思つて居るやうに決して後世の偽物でないといふことが余程明瞭になつて来たのであります。『冊府元亀〈サップゲンキ〉』の五百四十六巻柳沢に関する記事中にその『及烈』のことが書いてあり又た同書九百七十一巻に『開元二十年九月波斯王遣首領潘那密与大徳僧及烈朝貢』と云ふ記事があります。それから『大秦寺』といふ寺のことに付きましては三つばかり詩があります。一つは蘇東坡で一つは蘇東坡の弟の子由で一つは金の楊雲翼の作であります。東坡は御承知のやうに長安の近所の鳳翔府判官と云ふ役人となつたことがあります。そして同所には二十六七歳の時に赴任しまして、三四年滞在しました。そして丁度嘉祐七年(西暦一〇六二年)壬寅二月の十三日から出掛けて同月の十九日までこの長安の近所の自分の管内を旅行いたしました。そして自分の弟の子由に五百言の詩を作つて送りました。その外に一つ『大秦寺』と題せる詩があります。
晃蕩平川尽。陂陀翠麓横。忽逢孤塔逈。独向乱山明。信足幽尋遠。臨風却立驚。原田浩如海。滾々尽東傾。
この詩の年代は西暦で申しますと一千六十二年の作であります。故に唐の太宗の貞観〈ジョウガン〉十二年(西暦六三八)に建立せられたる大秦寺と云ふ寺と同名の寺の一が宋の嘉祐七年(西暦一〇六二年)まで存在して居たことだけは明瞭です。又たこの兄さんの『大秦寺』の詩に和した子由の『大秦寺』と題して次の通りです。
大秦遥可説。高処見秦川。草木埋深谷。牛羊散晩田。山平堪種麦。僧魯不求禅。北望長安市。高城遠似烟。とあります。
それから楊雲翼と申します人の詩があります。この人は金の人であります。この人は承安四年即ち西暦一千百九十九年に長安に陜西東路兵馬都総判官として赴任したのであります。そして大秦寺に詣つた〈マイッタ〉のであります。これはその時の詩であります。
寺廃基空在。人帰地自閒。緑苔昏碧瓦。白塔映青山。暗谷行雲度。蒼煙独鳥還。喚回塵土夢。聊此弄澄湾。
この詩と蘇東坡兄弟の詩を較べて見ますると、丁度百四十年程の距りがありますが。併し、兎に角、蘇東坡兄弟が行き金の楊雲翼が行つて共に大秦寺の詩を作つて居りますから、この大秦寺といふものは少くとも宋や金の時代までは其の寺の趾かあつたに相違ないのです。少くとも第十二世紀の終りまでは大秦寺の跡があつたといふことが證明出来ると思ひます。而して大秦寺に立派な『白塔』があつたことも長安の南であつたこともこれら三詩で明瞭です。ですから景教碑の建てられた建中二年と申しますのが西暦で七百八十一年でありますから、少くとも西暦七百八十一年から、一千百九十九年までの間、即ち約四二十年程の間といふものはこの大秦寺といふものが存在して居つたことが分ります。
更に景教碑文の記載や唐の舒元輿(太和元年頃)重巌寺の碑文(西暦八二七年)や宋敏求の『長安志』の記事によればこの大秦寺と云ふ寺は最初貞観十二年(西暦六三八年)に建てられたのであるから大秦寺そのものが中山集中の『大秦寺』の詩となるまでには前後五百六十年間を経過して居たのである。従つて唐から宋にかけて大秦寺そのものゝ存在せし事実を疑ふことは出来ないのです。〈附録24~26ページ〉【以下、次回】
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その五回目。
申すまでもなくメシヤ教といふのはキリスト教のことです。キリストといふのはギリシヤ語で、メシヤといふのはシリヤ語及びへブライ語であります。共に『油をそゝがれたるもの』といふ意味であります、メシヤ教といふのをその時の支那では『彌尸訶教』といふ字を使つて居るのです。而してこの景浄と般若との事件は丁度此の景教碑文の立つた二三年位後の話であつたと思はれます。何故かと申しますと般若法師が長安に到着しましたのが建中三年(七八二年)です。而して大乗理趣六波密多経の新訳が般若法師によりて完成したのが貞元五年(七八八年)です。故に景浄と般若との六波密多経共訳事件は西暦七八二年から七八五年頃までの事件であつたと思はれます。話は元に戻ります。前述いたしました通り、高楠博士の発見に依つて『大泰寺僧景浄』といふ者の正体が判つて来たのです。而して景教碑文といふ物が決して後世の偽作でないと云ふことになります。仏教の方の文献にこの景教僧景浄の名前が出て居るのみならず、この景教僧が六波羅密多経を印度人である般若法師と一緒に翻訳をして居つたといふのです。当時の景教僧の活躍振りまでも判つて来たのです。この石碑が決して嘘のものでないといふことが判つて参りました。これが明治二十八九年の頃であつたと記憶して居ります。それから此の碑文の中に『大徳及烈』といふ景教の坊さんの名が出て居ります。この『及烈』といふ大徳の名前を故桑原〔隲蔵〕博士が支那の書物の中に於て発見せられたのであります。それは桑原博士の論文集『東洋史苑』中に載つて居ります。『ネストル教の僧及烈に関する記事』と題せられたる論文はそれです。
斯の如くに我が高楠博士や桑原博士等の御発見や御発表に依つて、この景教碑は西洋の人等が思つて居るやうに決して後世の偽物でないといふことが余程明瞭になつて来たのであります。『冊府元亀〈サップゲンキ〉』の五百四十六巻柳沢に関する記事中にその『及烈』のことが書いてあり又た同書九百七十一巻に『開元二十年九月波斯王遣首領潘那密与大徳僧及烈朝貢』と云ふ記事があります。それから『大秦寺』といふ寺のことに付きましては三つばかり詩があります。一つは蘇東坡で一つは蘇東坡の弟の子由で一つは金の楊雲翼の作であります。東坡は御承知のやうに長安の近所の鳳翔府判官と云ふ役人となつたことがあります。そして同所には二十六七歳の時に赴任しまして、三四年滞在しました。そして丁度嘉祐七年(西暦一〇六二年)壬寅二月の十三日から出掛けて同月の十九日までこの長安の近所の自分の管内を旅行いたしました。そして自分の弟の子由に五百言の詩を作つて送りました。その外に一つ『大秦寺』と題せる詩があります。
晃蕩平川尽。陂陀翠麓横。忽逢孤塔逈。独向乱山明。信足幽尋遠。臨風却立驚。原田浩如海。滾々尽東傾。
この詩の年代は西暦で申しますと一千六十二年の作であります。故に唐の太宗の貞観〈ジョウガン〉十二年(西暦六三八)に建立せられたる大秦寺と云ふ寺と同名の寺の一が宋の嘉祐七年(西暦一〇六二年)まで存在して居たことだけは明瞭です。又たこの兄さんの『大秦寺』の詩に和した子由の『大秦寺』と題して次の通りです。
大秦遥可説。高処見秦川。草木埋深谷。牛羊散晩田。山平堪種麦。僧魯不求禅。北望長安市。高城遠似烟。とあります。
それから楊雲翼と申します人の詩があります。この人は金の人であります。この人は承安四年即ち西暦一千百九十九年に長安に陜西東路兵馬都総判官として赴任したのであります。そして大秦寺に詣つた〈マイッタ〉のであります。これはその時の詩であります。
寺廃基空在。人帰地自閒。緑苔昏碧瓦。白塔映青山。暗谷行雲度。蒼煙独鳥還。喚回塵土夢。聊此弄澄湾。
この詩と蘇東坡兄弟の詩を較べて見ますると、丁度百四十年程の距りがありますが。併し、兎に角、蘇東坡兄弟が行き金の楊雲翼が行つて共に大秦寺の詩を作つて居りますから、この大秦寺といふものは少くとも宋や金の時代までは其の寺の趾かあつたに相違ないのです。少くとも第十二世紀の終りまでは大秦寺の跡があつたといふことが證明出来ると思ひます。而して大秦寺に立派な『白塔』があつたことも長安の南であつたこともこれら三詩で明瞭です。ですから景教碑の建てられた建中二年と申しますのが西暦で七百八十一年でありますから、少くとも西暦七百八十一年から、一千百九十九年までの間、即ち約四二十年程の間といふものはこの大秦寺といふものが存在して居つたことが分ります。
更に景教碑文の記載や唐の舒元輿(太和元年頃)重巌寺の碑文(西暦八二七年)や宋敏求の『長安志』の記事によればこの大秦寺と云ふ寺は最初貞観十二年(西暦六三八年)に建てられたのであるから大秦寺そのものが中山集中の『大秦寺』の詩となるまでには前後五百六十年間を経過して居たのである。従つて唐から宋にかけて大秦寺そのものゝ存在せし事実を疑ふことは出来ないのです。〈附録24~26ページ〉【以下、次回】