◎西洋文明と東洋文明の分水嶺は1769年(佐伯好郎)
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その二回目。
又、本論に入るその前に一寸卑見を略述致したいと思ふことがあります。或は私の考〈カンガエ〉が間違つて居るかも知れませぬが世間の所謂西洋文明とか東洋文明とか申すものに関する愚見を申上たいのです。私の考へる侭を申上げて見ますと、大体次の通〈トオリ〉です。即ち西洋文明と申します所謂『ウエスタン・シビリゼーシヨン』なるものは最近百五十年年間のものと私は考へて居ります。世界歴史に於て一番重要な年代は西暦一千七百六十九年であります。何故に一千七百六十九年が世界歴史に於て――少くとも東洋人の立場から見て――一番大切なる年代であつたかと申しますと、此の年にナポレオン帝が生れ、此の年にウエリントン侯が生れ、かの一千八百十五年のウオーターローの大戦が此の年に決定せられてあつたから重要であるといふのではありませぬ。此の一七六九年は彼のゼームズ・ワツド〔James Watt〕が蒸気力を完成した年であるからであります。西洋はこの蒸気力を摑んでからといふものは、所謂西洋文明は幾何的【ジオメトリカル】の進歩を致したのであります。一千七百六十九年までの西洋文明と東洋文明とを較べて見ますと、例へば九段の遊就館に行つて日本のものを見ても、又た倫敦〈ロンドン〉博物館に行つて一千七百六十九年以前のヨーロツパのものを見ても、東洋の方が遥に進んで居るとも決して遅れては居りませんことを発見するのです。現に第十三世紀にイタリーから支那に来ましたマルコ・ボーロの報告文書に拠つても、或は第十六世の初めに当りて日本に来たフランシス・サビエールの日本より本国に送つた書簡集を読んで見ても、第十七世紀の初に日本より英国に送つた三浦安針(ウイリヤム・アダムス)の書簡を見ても悉く日本や支那の文化を見て驚嘆して居るのです。西洋が所謂スチーム・エンヂンのシビリーゼーシヨンを摑まへるまでは西洋人は支那に来ても日本に来ても皆な悉く感服して本国に帰つたのであります。その当時は支那人は漢字を使ひ、又た日本人も相当に難かしい日本文字を使つて居たのであるが故に日本や支那の文化が進歩しないとか。若くは西洋はローマ字を使つて居るから長足の進歩をして居るのだといふやうな勝手の報告は決して致して居りませぬ。少くともマルコ・ポーロの時代、フランシス・サビエールの時代、或はウイリヤム・アダムスの時代や甲比丹〈カピタン〉船長の時代まではそんな勝手な報告を書いて居る者はありませぬ。何故ないかと申しますと当時の支那の文明と謂ひ日本の文明と謂ひ凡て〈すべて〉東洋の文明といふものが西洋の文明よりは進んで起つたからであります。東洋文明は第十八世紀までは物質的にも精神的にも西洋諸国より進んで居つたのであります。所が西洋文明諸国が一千七百六十九年に蒸気力を完成しました。それから東洋文明諸国が物質的に西洋に押しつけられる様になつたのです、併し欧州諸国は一七六九年に完成した蒸気力を、十分に利用し得ざる中に仏蘭西〈フランス〉革命やナポレオンの騒動が始つて、一千八百十五年までは御承知のやうに西洋はこの蒸気力をどうすることも出来なかつたのです。英国にしても一千八百二十五年から初めて産業に向つたのであります。ですから東洋文明が西洋文明に遅れ出したのは僅かに一千八百二十五年の産業革命の最初からであると私は信じて居ります。この見地から致しまして私は西洋の文明と東洋の文明を比較研究いたしますに当りてはこの蒸気力の応用完成を以て一大時期としたいのです。そうしてその以前の東西両文明の進歩の状態は一から二、二から三といふ算術的の進歩の仕方でありましたことを発見します。併し西洋が一度び蒸気力を摑んでからといふものは、西洋の進歩の状態は幾何的であつたのです。即ち一から二、二から四、四から八、八から十六といふやうな進み方をしたのであります。勿論一千七百六十九年からナポレオン騒動時代の間にアダム・スミスの経済学の著書もあります。而して色〻と西洋文明の原動力となるものゝ変化はありました。併し兎に角〈トニカク〉一千七百六十九年が西洋文明と東洋文明の分水嶺になつて居ると思つて居ります。それ故に私は今日の西洋の文明と今日の東洋文明とをそのまゝ比較することは公平なる方法でないと考へるのです。例へばキリスト教は疑〈ウタガイ〉もなく西洋文明の根柢であります。併し今日のキリスト教と今日の支那若くは其他の東洋の思想とをそのまゝ今日の状態に於て比較対照するといふことは、公平でないと思ふのです。否非常に無理があると考へるのであります。それで本当に東洋文明と東洋文明とを比較対照しやうと思へば、先づ第一に蒸気力のない時代に溯つて両者を比較しなければ決して本当のことは分らぬ。と私は思つたのであります。偶〻〈タマタマ〉この支那に伝来したキリスト教である景教の問題があるのです。そこでこの景教を中心として、之を研究して、之に依つて西洋の精神文明の土台になつて居るキリスト教対東洋思想の問題を此の見地から研究することが比較的公平なる研究の方法であらうと思ふて居るのです、換言しますれば景教を研究することに依つて一方に於ては西洋のキリスト教そのものが一層よく判明になります。又たそれと同時に他方に於ては景教が何が故に支那に於てあゝいふ風な状態になつたかといふやうなことを研究することに依つて、(第一)支那の思想と西洋の思想とは果して調和するものか、調和しないものか(第二)、又た若し調和するとせばどういふ風になるかといふやうな問題も自然明瞭になつて来ると思ふのであります。そうなれば景教の研究も必らずしも無益ではないと信んじて居ります。〈附録18~20ページ〉【以下、次回】
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その二回目。
又、本論に入るその前に一寸卑見を略述致したいと思ふことがあります。或は私の考〈カンガエ〉が間違つて居るかも知れませぬが世間の所謂西洋文明とか東洋文明とか申すものに関する愚見を申上たいのです。私の考へる侭を申上げて見ますと、大体次の通〈トオリ〉です。即ち西洋文明と申します所謂『ウエスタン・シビリゼーシヨン』なるものは最近百五十年年間のものと私は考へて居ります。世界歴史に於て一番重要な年代は西暦一千七百六十九年であります。何故に一千七百六十九年が世界歴史に於て――少くとも東洋人の立場から見て――一番大切なる年代であつたかと申しますと、此の年にナポレオン帝が生れ、此の年にウエリントン侯が生れ、かの一千八百十五年のウオーターローの大戦が此の年に決定せられてあつたから重要であるといふのではありませぬ。此の一七六九年は彼のゼームズ・ワツド〔James Watt〕が蒸気力を完成した年であるからであります。西洋はこの蒸気力を摑んでからといふものは、所謂西洋文明は幾何的【ジオメトリカル】の進歩を致したのであります。一千七百六十九年までの西洋文明と東洋文明とを較べて見ますと、例へば九段の遊就館に行つて日本のものを見ても、又た倫敦〈ロンドン〉博物館に行つて一千七百六十九年以前のヨーロツパのものを見ても、東洋の方が遥に進んで居るとも決して遅れては居りませんことを発見するのです。現に第十三世紀にイタリーから支那に来ましたマルコ・ボーロの報告文書に拠つても、或は第十六世の初めに当りて日本に来たフランシス・サビエールの日本より本国に送つた書簡集を読んで見ても、第十七世紀の初に日本より英国に送つた三浦安針(ウイリヤム・アダムス)の書簡を見ても悉く日本や支那の文化を見て驚嘆して居るのです。西洋が所謂スチーム・エンヂンのシビリーゼーシヨンを摑まへるまでは西洋人は支那に来ても日本に来ても皆な悉く感服して本国に帰つたのであります。その当時は支那人は漢字を使ひ、又た日本人も相当に難かしい日本文字を使つて居たのであるが故に日本や支那の文化が進歩しないとか。若くは西洋はローマ字を使つて居るから長足の進歩をして居るのだといふやうな勝手の報告は決して致して居りませぬ。少くともマルコ・ポーロの時代、フランシス・サビエールの時代、或はウイリヤム・アダムスの時代や甲比丹〈カピタン〉船長の時代まではそんな勝手な報告を書いて居る者はありませぬ。何故ないかと申しますと当時の支那の文明と謂ひ日本の文明と謂ひ凡て〈すべて〉東洋の文明といふものが西洋の文明よりは進んで起つたからであります。東洋文明は第十八世紀までは物質的にも精神的にも西洋諸国より進んで居つたのであります。所が西洋文明諸国が一千七百六十九年に蒸気力を完成しました。それから東洋文明諸国が物質的に西洋に押しつけられる様になつたのです、併し欧州諸国は一七六九年に完成した蒸気力を、十分に利用し得ざる中に仏蘭西〈フランス〉革命やナポレオンの騒動が始つて、一千八百十五年までは御承知のやうに西洋はこの蒸気力をどうすることも出来なかつたのです。英国にしても一千八百二十五年から初めて産業に向つたのであります。ですから東洋文明が西洋文明に遅れ出したのは僅かに一千八百二十五年の産業革命の最初からであると私は信じて居ります。この見地から致しまして私は西洋の文明と東洋の文明を比較研究いたしますに当りてはこの蒸気力の応用完成を以て一大時期としたいのです。そうしてその以前の東西両文明の進歩の状態は一から二、二から三といふ算術的の進歩の仕方でありましたことを発見します。併し西洋が一度び蒸気力を摑んでからといふものは、西洋の進歩の状態は幾何的であつたのです。即ち一から二、二から四、四から八、八から十六といふやうな進み方をしたのであります。勿論一千七百六十九年からナポレオン騒動時代の間にアダム・スミスの経済学の著書もあります。而して色〻と西洋文明の原動力となるものゝ変化はありました。併し兎に角〈トニカク〉一千七百六十九年が西洋文明と東洋文明の分水嶺になつて居ると思つて居ります。それ故に私は今日の西洋の文明と今日の東洋文明とをそのまゝ比較することは公平なる方法でないと考へるのです。例へばキリスト教は疑〈ウタガイ〉もなく西洋文明の根柢であります。併し今日のキリスト教と今日の支那若くは其他の東洋の思想とをそのまゝ今日の状態に於て比較対照するといふことは、公平でないと思ふのです。否非常に無理があると考へるのであります。それで本当に東洋文明と東洋文明とを比較対照しやうと思へば、先づ第一に蒸気力のない時代に溯つて両者を比較しなければ決して本当のことは分らぬ。と私は思つたのであります。偶〻〈タマタマ〉この支那に伝来したキリスト教である景教の問題があるのです。そこでこの景教を中心として、之を研究して、之に依つて西洋の精神文明の土台になつて居るキリスト教対東洋思想の問題を此の見地から研究することが比較的公平なる研究の方法であらうと思ふて居るのです、換言しますれば景教を研究することに依つて一方に於ては西洋のキリスト教そのものが一層よく判明になります。又たそれと同時に他方に於ては景教が何が故に支那に於てあゝいふ風な状態になつたかといふやうなことを研究することに依つて、(第一)支那の思想と西洋の思想とは果して調和するものか、調和しないものか(第二)、又た若し調和するとせばどういふ風になるかといふやうな問題も自然明瞭になつて来ると思ふのであります。そうなれば景教の研究も必らずしも無益ではないと信んじて居ります。〈附録18~20ページ〉【以下、次回】
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