礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

薩長は連合してこの議会に当らんならん(伊藤博文)

2023-02-05 01:59:45 | コラムと名言

◎薩長は連合してこの議会に当らんならん(伊藤博文)

 清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その四回目。

      維新史をすゝめるイギリス学者
 両人〔ダイシイとアンソン〕はそれならよく分るが、然らば憲法と同時に何故日本政府は憲法を発布するまでになつた国の沿革歴史――維新史を出さないのであるか、憲法だけ見せられても何のために憲法政治をするのか分らぬではないか、維新の歴史はかうだ、憲法はかうであると二つあつて初めて分る、だから早く維新史を出しなさいと言はれた。更に両人はイギリスの憲法は正文はないが、憲法歴史はある、その歴史があるから憲法政治の変遷が分るので、歴史がなくては憲法政治は分らない。君はわざわざ我々の意見を聞きに来たといふが、維新史を見なければ憲法のよしあしは分らない。何のために憲法政治になつたかといふ歴史がなくては憲法だけ幾ら立派でも紙の上の憲法だ。……といふのであります。これには私は一言もなかつた。ダイシイ、アンソンの両人は維新史がないなら日本の歴史ならあるだらうといふ。大日本史、山陽の日本外史、親房の神皇正統記といふものがあると答へると、それを送つてくれ、オツクスフオード大学で日本人を雇つて翻訳させるといふのであります。その歴史を研究してから憲法の批評をしようといふわけである。
 一寸考へて御覧なさい。何百冊といふ大日本史を翻訳させることは言ふべくして出来ないではありませんか。とても出来るものでないと両人に言ふと、それなら何故日本政府でやらんのかと、私はさんざんな態たらく〈テイタラク〉であつた。幸ひ多少私は日本古来の歴史を知つてゐたので、それと維新になる沿革を説明した。するとお前のやうな生きた人が説明すればよく分る、早くそれを書いてはどうかと勧められた。ハーバート・スペンサーも同じ意見でありました。スペンサーは更に憲法とともに維新史を編纂することは、畏れおほいことながら 明治天皇の皇祖に対する御義務であり、国民に対する 陛下の御義務でもあるとまで言つた。
 この言葉は非常に強く私の頭に入つたのであります。翌廿三年〔一八九〇〕帰朝しその旨を山県〔有朋〕総理に報告した。そして憲法は出来たがそれに伴ふ憲法歴史がない、即ち維新史を書くことが必要だ、スペンサーの如きは 明治天皇の皇祖、国民に対する御義務だとまで申してゐる、まづ維新史を書き、遡つて二千五百年の歴史を書くことを宮内省で仰せ出すことが必要であるとの建白書を私は山県総理、土方〔久元〕宮内大臣に出した。伊藤〔博文〕さんにも見せた。
 そのころ伊藤さんは枢密院議長をやめて在野の人であつた。宮内省に歴史編纂局を設け第一に維新史を書くといふ建白書のことは、概観維新史の緒言に書いてあります。土方大臣はそれは甚だよいことだ早速宮内省でやらうといふので、予算も出来、私にも命ぜられた。いよいよ省議で決定したところが、そのころは皇室の経済に関しては宮内省に経済委員があり、伊藤、山県、松方〔正義〕の三人がそれであつて、承認を経る必要があつた。そこで内蔵頭〈クラノカミ〉の杉孫七郎〈スギ・マゴシチロウ〉といふ人が宮内大臣の命を受けて伊藤さんの所へ行くことになつた。ところが伊藤公は、もつての外である、一体誰が維新史を書けなんて言つたのかと言ふ。金子が建白書を出したのだといふと、よしそれなら金子を呼んで言つてやると、すぐ私は呼びよせられた。私が伊藤さんの所へ行くと、いきなり、
 『君はとんでもないことを言ふ。』
 『用件も言はずにとんでもないとは何ですか。』
と私が反問すると、
 『君は維新史を書くといふことを宮内省に建白したさうだ。大臣は予算まで組んで俺に持つて来て見せたが、あんなことはいかぬ。以ての外である。』
 『あなたにも言ふたぢやござんせんか、オツクスフオードのダイシイ、アンソン、それにスペンサーまでが維新史を書けといふ、私も宮内省でやらんならぬと思つて土方大臣に申上げた。』

      維新史の書けぬ事情と伊藤博文の苦衷
 ところが伊藤さんは、その論は分つてゐるが、今はその時期ではないと言はれた。私はその時伊藤さんは偉い人だと思つて感服したのであります。伊藤公の言によれば、――維新史の編纂は明治元年から、又 孝明天皇の時からも書くといふことはあつたのだ。よく考へて見給へ。元治元年〔一八六四〕の蛤御門の戦〈ハマグリゴモンノタタカイ〉はどう書くのか。あの戦は薩賊会奸〈サツゾクカイカン〉――薩州の賊、会津の奸物といつて、長州が勤王軍を起したのではないか。あれをどう書くか。薩は賊、長州は勤王と書くより外ははないではないか。さうすればどういふ結果となるか。今日薩長が連合して幕府を倒し、王政明治政府が出来、憲法も出来た。この廿二年間我々がどれほど薩長の衝突を回避する為に苦心したか君もよく知つてゐるぢやないか。それにも拘らず木戸〔孝允〕、大久保〔利通〕の仲違ひ、西郷〔隆盛〕の十年の役などがあつた。また今日薩賊などと書くとすれば、消えかゝつた灰の中の火をまた吹きおこすやうなもので、薩長の連合は毀れてしまふぞ。明治も廿三年、議会は開かれるのだ。自由党の板垣〔退助〕、改進党の大隈〔重信〕ば薩長藩閥といつて、あれを打倒せんければ、憲法政治にはならぬと呼号してゐる。彼等の目指す敵は薩長だ。かういふ時だ。薩長は連合してこの議会に当らんならんぢやないか。世界の大勢を考へ、昔の蛤御門は忘れ、臣節を全うして行かねば憲法政治は行はれやせぬ。かういふ時代に、君らは唯学者の言をそのまゝ信じて維新史を書くなどと言ふ、とんでもないことだ。
 この伊藤公の言には私は頭が下つた。いやよく分りましたあなたに一任しますといふことになつた。伊藤さんはとにかく俺に任しておけ、その時期が来れば必ず陛下に申上げて書かせるやうにする。第一議会から五六年の間が大事な時だ。憲法政治が生くるも死ぬもこの五六年にある。今書いてはいかぬといふので、私は建白書を撤回したのであります。
 廿三年〔一八九〇〕から十九年の歳月を閲し〈ケミシ〉四十二年〔一九〇九〕となつた。憲法政治は既に十九年円満に行はれた。これら軌道に乗つてずんずん進んで行くと伊藤公は認められたと思ふ。維新史を書くには一番いゝ時期である。木戸・大久保は故人となり、三条・岩倉も亡き数に入る。山県・井上・大山〔巌〕・松方・西郷(従)土方等の生きてゐるうちに着手しようといふことになり、伊藤公は私〔金子〕に調査委員をしてくれといふ。しかしロシヤ政府の大蔵大臣がハルビンまで出張して来る。自分も日露戦争後の色々困難な問題について外交談判しにハルビンまで行くから、帰つて来た上で、維新史編纂が御発令になつたら総裁になりお引受けするから、それまで待つてくれと言残して出掛けられた。するとハルビンで伊藤公は御存知の通り兇弾に殪れた〈タオレタ〉のであります。【以下、次回】

 引用の最後のほうに、「西郷(従)」とあるのは、西郷従道(さいごう・つぐみち)のことである。西郷従道は、日露戦争前に亡くなった(一八四三~一九〇二)。ここで金子が、西郷従道の名前を挙げたとすれば、それは記憶違いであろう。

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