◎江戸文政年間に開かれた「方言座談会」
国語学者の松尾捨治郎(一八七五~一九四八)が書いた『国語論叢』(井田書店、一九四三)という本がある。かねて愛読しているが、これは、隠れた名著と言えるのではないか。
松尾捨治郎は、「東條義門」の研究家として知られる。『国語論叢』においても松尾は、かなりのページを割いて、義門の業績について紹介している。なお、松尾は、「東條義門」という呼称を認めていない。同書においても、「義門」、あるいは「釈義門」という呼称が用いられている。
松尾捨治郎によると、義門は、文政年間に「方言座談会」とも言うべき集まりを開いていた。本日および明日は、松尾が、その「方言座談会」について述べているところを紹介してみたい。出典は、『国語論叢』の「第二十九 義門中心の方言座談会」。文中の傍線、一字アキは原文のまま。
なお、この章は、松尾が昭和一二年(一九三七)におこなった講演の筆記録だという。
第二十九 義門中心の方言座談会
一 第 一 座 談 会
義門は若狭国〈ワカサノクニ〉小浜〈オバマ〉の妙玄寺の住職、其の子孫が明治以後、一旦、祖先の俗姓三浦を称したが、後故あつて先祖が三河の国東條村の出なのに因んで、東條と改めた。義門自身は出家であるので、姓を名告る〈ナノル〉筈はなく、釈義門と称し、他からは法師とか義門大徳とか称したので、東條義門などといふことは、その生前は自他共に夢想もしなかつたのである。さて義門は藤井高尚〈タカナオ〉の講筵に侍し、又、書信等で、教〈オシエ〉を受けたので、其の門人と見てよい。本居家の 太平〈オオヒラ〉 春庭〈ハルニワ〉 にも私淑して、本居派の国語学を大成したことは、周知の通りである。
其の多くの著害の中、「活語余論」半紙本三巻が、写本として妙玄寺に伝つて居るが、門人青山恕の筆らしい。外に第四巻があつた筈であることは、自分が嘗て國學院雑誌に述べて置いたが、岡山県金浦〈カナウラ〉の久我於菟一郎氏方に四五六の三巻が伝つて居たのを、昭和十一年〔一九三六〕九月福井県大野の高島正氏が伝写した者を自分も写すことを得た。
さて此の書は単に活語の研究のみではなく、歌集の 題しらず よみ人しらず を初として、音韻 古瓦 異年号 等の研究もあり、四 五 六 の方には、名分論といふべき者も見えて居る。其の中に方言に関する事が記載されて居るが、之を綜合すると、方言座談会といつてもよいやうな会が、二回程あつたやうである。その大体を紹介する。
【一行アキ】
其の第一は、第二巻の『じ ぢ のけぢめの条』に見えて居る。即ち
時 文政の初年
処 鐸ノ屋 藤井高尚の京都塾
人 1 吉田 直堅(土佐人) 2 本居 太平
3 塙 保己一 4 大堀 正輔
5 義門
といつた構成で座談が行はれた。此の時の話題其の他が詳か〈ツマビラカ〉でないが、次のやうな談話の行はれたことだけは解つてゐる。
吉田「自分の郷里土佐では富士の山は必ずふじ山 藤の花はいつもふぢ とかくこと、女わらべも間違はない。口で呼ぶのが区別されてゐるからである。然るに京に出て三年五年住んでゐた女などは、帰国してことさらめいて〔わざとらしく〕解らぬやうにいふ。
義門「土佐の人のみでなく一般の人にも区別が不可能ではない。即ち、だ で ど と ざ ぜ ぞ とにたぐへて〔比へて〕云へばよいので、舌用のかゝり 歯用のあづかる所 を心えて試みるがよい。
或人「日向人に聞く所によると、かの国では治助と次助と区別して呼び、筑前でも十蔵と重蔵とはつきり別れてゐるといふことである。
義門「肥前人に聞くに 何右衛門 何次郎の 治 次 を皆いひ分ける。富士 藤 は勿論である。
此の時の会のことは、此だけが分つて居るに過ぎないのは、会合者の顔触〈カオブレ〉から見て、特に遺憾に思はれる。〈三七四~三七六ページ〉【以下、次回】