礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

今ごろ義門大徳の本をお探しのようでは……

2022-11-16 03:05:53 | コラムと名言

◎今ごろ義門大徳の本をお探しのようでは……

 松尾捨治郎『国語論叢』(井田書店、一九四三)から、「第二十八 活語余論後篇の所説について」を紹介している。本日は、その四回目(最後)で、「五 大義名分に関する説」を紹介する。
 著者が義門の「活語余論後篇」を要説しているところは、《  》によって示す。その中で、改行して、歌文が引かれる場合は、――によって示す。傍線、一字アキは原文のまま。

《当世(江戸時代)は、天皇には、御宇 還幸 とのみ申すが、古くは、「天皇還御三代実録」「くわん御はあけ方にぞなりにける 増鏡」などの例もある。又古くは某宮ニ御宇【アメノシタシロシメシシ】天皇と申したのを、後世は某天皇御宇又は御治世とも申した。然るに当世、之を紛はしく用ゐるのは畏多いことである。》
此は江戸時代に将軍について 還御 御治世 などと言つて居たのが、名分に反する事を指したのである。義門は之を明言して居ないが、其のつゞきに次のやうな事を言つて居るので判断出来る。
《支那でも 朕 勅 など、古くは帝王に限らなかつたのだが、秦始皇のやうな暴君でも、人皆之を守つて居るではないか。然るに「其の唐国【からくに】よりはたふとき御国にうれしくもすまひながら、いといとかしこき大御〈オオミ〉を申にまぎるゝ詞つかひなどをばよくえらみおかざるべけんや」》
と言つて居る。其の志の深く皇室に存して居たことは、此の一条でも明かである。
《今の世 懐紙 序 跋 等に、平某 源某などと、濫りに姓を記す人が多い。かの允恭〈インギョウ〉天皇の御代、探湯〈クカタチ〉をして姓を正されたことを知らない筈はないのに、何としたことであらう。又昔は、姓は勅によつて賜はつたり、改めたりしたのである。玉勝間に「今の苗字は姓と同様であるから、正しきを守れ」と説いて居るのは如何にも尤である。然るに其の人自ら小津といふのを本居と改めたのは、濫〈ミダリ〉なる業をしたのでもあるまい。》
此は宣長に対する皮肉である。此について想ひ出されるのは、義門の氏を東條といふことである。元来出家した以上は、姓氏が無い筈であるから、親鸞も日蓮も仙覚も契沖も姓氏を言はない。同様に義門も、自身では妙玄寺義門又は釈義門とのみいつて居た。其が明治の初年、其の子逢伝の時に、僧侶も姓氏を要することになつたので、祖先の俗姓三浦を名のつたが、些細なことから、祖先が三河の東條から出たといふので、東條と改めたのである。今の世の人多くは東條義門といつて居るが、東條といふ姓は、義門自身は夢想もしなかつた筈である。往年名古屋の其中堂〈キチュウドウ〉で、「指出の磯」「磯の洲崎」の有無を尋ねた時、店員が「あゝ義門大徳のですか」と言つたのを聞いて、ゆかしく感じたことがある。其の序〈ツイデ〉に「あなたも今頃義門大徳の本をお探しの様では、あまりはやらない方ですね」と言はれたが、此亦味のある皮肉である。
《殷の湯王は夏の桀王に勝ちながら、徳に慙ぢる〈ハジル〉所があり、又桀王が甚だ悪虐であつたから、其の放たれた時の夏人の悲はさまでで無い。周の武王は殷の紂王に勝つて慙ぢる色が無い。又紂王が亡された時の殷人の悲は、鴟鴞〈シキョウ〉小瑟〈ショウシツ〉の詩に著しい。此彼〈コレカレ〉思ひ合せると、国学者が常に湯武を並べ悪む〈ニクム〉のも、漢学者が之を並べ崇める〈アガメル〉のも、共に従ひ難い。
 我が国の昭宣公(藤原基経)の事を伊尹〈イイン〉に準へる〈ナゾラエル〉学者があるけれども、仮に通説の如く「伊尹放諸(其君太甲)桐」としても、後に復辟〈フクヘキ〉させたのであるから、昭宣公とは大に趣が違ふ。特に、放は篆書が似て居る所から教とあつたのを誤つたのだといふ説があつて、之に従へば教へ導いて後復辟せしめたのであるから、尚更違ふ。支那の聖賢の事跡に似て居るからと言つて、我が國體を考へずに、濫りに昭宣公を賞めてはならない。
漢学者が応神天皇が稚郎子〈ワキイラツコ〉を皇太子に定めたまうた事や、村上天皇が歌合〈ウタアワセ〉を好ませ給うた事を謗る〈ソシル〉のもよくない。 
 ――推古天皇は女帝の御初であらせられたので、陰気の盛な事が天道に適はず、其の三十四年の六月に雪が降つたりなどしたのである。
 といふ批難も、支那本位の考方で、不合理千万である。若し其ならは、其の二十五年に豊年であつたのを、何と説明するか。又かしこくも日の大御神〔天照大神〕が女神におはしますのを如何に考へ奉るか。》
漢学者と所見を異にするのは怪しむに足らないとしても、徳川将軍に媚びない凜乎〈リンコ〉とした気概のほの見えるのは、其の時勢に照して、誠に敬服の至〈イタリ〉である。    (昭和一七、七)〈三七一~三七三ページ〉

「御宇天皇」は、今日では、「あめのしたしろしめすすめらみこと」と読むのが一般的である。
「名古屋の其中堂」というのは、名古屋にあった有名な古書店で、今日、京都河原町で営業している其中堂が、その後身であるという。
「伊尹放諸(其君太甲)桐」の故事については詳しくないが、「桐」は地名と思われる。
 今回、紹介した部分で、いちばん興味深かったのは、松尾捨治郎が名古屋の其中堂で、義門の著書について尋ねたとき、店員から、「あなたも今頃義門大徳の本をお探しの様では、あまりはやらない方ですね」と言われたという話である(「方」の読みは、たぶん、「ほう」)。
 伝統ある古書店の店員は、顧客に対して、こういう失礼なことは言わない。「義門大徳の本をお探しの方は、最近では、珍しくなりました」といったことを、松尾は、その店員から言われたのだろう。それを、店員から「あまりはやらない方ですね」と言われたという話に作り変えたのだと思う。松尾は、おそらく、こういう諧謔を好む人物だったのだろう。
 それはともかくとして、こういうブログで、松尾捨治郎の本などを紹介していると、「あなたも今ごろ、松尾捨治郎の本を紹介しているようでは、あまりはやらないほうですね」と言われそうだが、もちろん、そんなことを意に介する者ではない。

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