礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ファシズムとナチ哲学が公定思想として通用し……

2022-11-01 02:27:32 | コラムと名言

◎ファシズムとナチ哲学が公定思想として通用し……

 田中耕太郎『教育と政治』(好学社、一九四六)から、「言論界の責任と其の粛正」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

      二
 反省すべきことの一は自由主義、個人主義、民主主義と云ふやうな世界観的乃至政治論的用語が、其等に関する明暸な概念決定を為すことなしに濫用せられ来つたことである。従来明治大正以来我が議政壇上に於て斯かる世界観的言葉が用ひられたことは殆んどなかつたやうである。議論は政府の上げ足取り乃至各個の局部的政策の批判に限られてゐた。八九年前に自由主義に関する活潑な論議がなされたことは、此の内容の如何は別問題としてイデオロギーなき現実政治論に終始してゐた頃と比較すれば一段の進歩と見られ得た。所が世界的理解、政治哲学的訓練を欠く政治家や大衆が斯様な世界観的用語を弄ぶ〈モテアソブ〉位危険なことはなかつた。彼等は所謂自由主義の内容を十分検討せず、それを全面的に悪徳乃至危険思想と断定し、議論で苟くも自説に反対する者は総てこれに自由主義の「汚名」を着せた。(これ特に哲学や政治に全く素人の軍人や官僚の一般的態度であつた。)
 自由は放恣と、個人主義は利己主義と混同せられた。反之〈コレニハンシ〉統制と全体主義とは無条件に美徳であり愛国心の発露の様に考へられた。自由の哲学者カントやヘーゲルの哲学までが危険視せられ、フアツシズムとナチ哲学が我が国に於ても唯一の公定思想として通用し、それが官憲の文教政策を支配するに至つた。人格の完成も自由主義個人主義である。「自由」が絶対に否定せられる以上、論理上是を為す自由も払拭せられなければならぬのである。主観的価値判断を否定するの意味なのか、それとも選択の自由のみを否定するのか、左様なことは全然考慮せられない。国際とか人類とか平和とか人道とかいふ語が言論界の辞書から姿を消すと共に、自由といふ名が附せられたものは何んで〔も〕排撃せられなければならぬといふ状態であつた。
 斯くして総ての美徳は国家や民族より出発し、又国家や民族に遷元せられた。「正とは独逸民族に有用なものであり、不正とは独逸民族に有害なるものである」とのナチ一指導者の言は事実として我が思想界をも風靡した。「国家」や「民族」は其の理想的な状態を意味するものではなく、現在の政治家、軍人及び官僚に指導せられたそれであつた。「有用」性は現実政治の要請に出で且つ斯かる人士の主観的判断に委ね〈ユダネ〉られた。斯くして真善及び美の価値判断は国家の手中――と云ふのは識見なき政治家、軍人及び官僚の手中――に委ねられたのである。若し自由主義の価値の標準を経験的個人の恣意的判断に置く意味に於て不当とするならば、それが国家――経験的国家――の判断に置かれる場合にも其の誤謬に於て同断といはなければならない。
 かくて真善美は其の高貴な地位から国家の現実政策権力政策遂行の手段に顛落した。其等は情けなくも国家の奴隸と化すに至つた。教育勅語に宣明せられてゐる個人や家族に関する人倫の大本〈タイホン〉の良心的内面的遵奉〈ジュンポウ〉は強調せられず、実践が伴はず他人を責めるだけの口頭禅的形式主義的の愛国心の鼓吹が行はれた。不磨の大典たる憲法中の臣民の自由に関する条規は等閑視せられ、或は公公然と蹂躙〈ジュウリン〉せられた。自由は滅び、人格は萎微〈イビ〉し、国民の内面的生活力及び創造力は極端に薄弱となり、経済力は別問題として最も重要な道徳的思想的方面に於て連合国の強敵に対し何う見ても総力戦を云々し得るやうな状態ではなかつたのである。〈三四一~三四四ページ〉【以下、次回】

「公公然」は、「公然」を強調した表現。「萎微」は、なえおとろえること。一般には、「萎靡」(なえしぼむこと)が用いられる。

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