◎釈義門『活語余論』の「後篇」について
松尾捨治郎『国語論叢』(井田書店、一九四三)の紹介を続ける。
本日以降は、同書の「第二十八 活語余論後篇の所説について」を紹介する。ここで松尾は、「活語余論後篇」における義門の所説を詳しく解説しているが、今回、紹介するのは、その最初と最後のみ。文中の傍線、一字アキは原文のまま。
第二十八 活語余論後篇の所説について
一 序 言
江戸時代国語学の最高峰に立つと称して差支のない釈義門は、天保十四年〔一八四三〕二月郷里小浜を出て、京都より讃岐に赴き、崇徳天皇の御跡〈ミアト〉を偲び奉り、備中に至つて、先師藤井高尚の遺族を訪ひ其の遺著の整理などして、播磨を経ての帰途、宿痾漸く重り(以上は袖濡廼日記に詳しい)七月に帰山、八月十五日に歿したのである。先年来、自分の言ひ度い事は、義門小考(昭和一〇・二國學院雑誌)稿本入言小補について(一一・三同上)義門中心の方言座談会(一二・三方言)義門雑考(一二・五学苑)等に述べ尽した感もあるので、此処には、未刊書の活語余論後篇の所説を、高島正氏の手写本により、紹介することにした。此処に後篇といふのは、筆者が便宜上命名した者であつて、図書の四五六の三巻を指すのである。一二三の三巻は、写本ながら早く世に知られ、又筆者の校註した者を昭和十二年〔一九三七〕九月から十三年〔一九三八〕の五月にかけて、之を一冊に纏めて希望者に頒つた〈ワカッタ〉こともある。当時世に知られて居たのは此の三巻だけであるが、筆者は小浜某氏蔵の妙玄寺蔵書目録ともいふべき者や袖濡廼日記等により「第四巻もあつたに相違ない」と認め、其の旨義門小考中に述べて置いた。然るに其の年の夏、福井県大野の義門研究家高島正氏が、六巻本の活語余論を手写して居られることを知り、「文学」昭和十二年〔一九三七〕二月号に関政方〈セキ・マサミチ〉の研究家野田實氏が六巻本のことを紹介された。此の六巻本は、義門或は其の門人の青山茂春(成春とも書く。通称伊左衛門、小浜藩士、家を弟に譲り、義門の門人となり、能筆なので師の著述の 謄写 板下書〈ハンシタガキ〉を多くして居る)〔が〕傭字例の著者たる備中の関政方に送つて置いたのが、政方から其の門人の久我苗彦に、其から其の子孫へと伝つた者なさうである。此の六巻の中、早く世に知られた一二三を前篇と呼び、新に発見された四五六を後篇といつても、義門のことを東條義門といふ程の不合理ではあるまい。〈三五九ページ〉【以下、次回】
冒頭で松尾は、義門のことを「釈義門」と呼んでいる。小浜の妙玄寺の住職だったからである。文中に、「七月に帰山」とあるが、この「帰山」は、寺に帰るの意味であろう。なお、小浜の妙玄寺は、小浜市広峰に現存する(浄土真宗大谷派)。
また文中に、「然るに其の年の夏」とあるが、「其の年」というのは、「義門小考」を発表した年、すなわち一九三五年(昭和一〇)のことと思われる。