礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

何時ニナレバ此レホドニナレルカ(古田東朔)

2022-11-08 00:16:25 | コラムと名言

◎何時ニナレバ此レホドニナレルカ(古田東朔)

 一か月ほど前、神保町の某古書店で、古田東朔著『東朔夜話』というエッセイ集を入手した。本文一〇五ページ、一九九六年六月、鶴見大学日本文学会発行。定価が記されていないので、非売品だったのであろう。著者の古田東朔(一九二五~二〇一三)は、国語学者として知られる。一九八六年に東京大学教養学部教授を定年退官(東京大学名誉教授)。この本を出した当時は、鶴見大学文学部日本文学科教授だった。
 その本の中に、「橋本進吉博士に関すること」という一篇があった(七一~七五ページ)。最初の二ページ強を、以下に引用させていただく。

橋本進吉博士に関すること

 全く奇縁としかいえない話、そして私にとっては恥ずかしい話から始める。
 鶴見大学へ転任して、もう三年近くたったころである。同僚の高田信敬氏が、同じ小野正弘氏と、「巻末に生意気な読後感を書いている、いやな男(といったように、私は記憶している)がいる」という話をしているのを、横で聞いたことがある。前にも一度耳にしたことがあったのだが、このときの話の方がもっと具体的だった。橋本進吉博士の『古代国語の音韻に就いて』の後ろの白い見返しに書いてあるそうである。その本は、高田氏が代々木上原の古書店で求めたもので、同じ本は他にもあったが、その方が高い値段がついていた。これは、巻末に生意気なことを書いてあったからだろうという話である。その高い方をわざわざ買い、後に小野氏に贈ったのだそうである。橋本博士の著書でもあり、話を聞いていた私も、一体どんな男がどう書いたのだろうかと、おもしろくなって、それを見せてほしいと頼んだ。
 ところが、である。――小野氏が見せてくれたものをあけたら、驚いてしまった。どうも、私の昔の字のようである。見返しには、上に「第一回」と書き、その下に「昭和十七 年三月十三日」、旧制高校の一次試験の発表の前日に読んだと書いてある。
  一次発表ヲ明日ニ控へテ読了、大イニ感服、何時ニナレバ此レホドニナレルカ、
と書いてあるのである。見直し、見直ししたが、私の書いたものだ。旧制中学の四年生の終りのときになる。物知らずほど、こわいものはない。全く恥ずかしくて、たまらなかった。「どう見ても私の字だ」といったあとは、モゴモゴ。何をいったか、覚えていない。
 この話を後に清水康行氏がいるところでしたところ、その本を見て、疑問点を指摘してくれた。その本は、明世堂から「昭和十八年一月」に出された再版である。昭和十八年の本に、「昭和十七年三月」などと書くことはありえない。
 確かにそのとおりである。しかし、これには訳があった。当時、父は、藤村作博士が顧問(日本側の代表)という形でおいでになっていた北京の師範大学で、日本語教育を担当していた。私が上京するとき、国語学関係の新刊書を買って来いといわれていたので、そのとき、買ったものを読んだ記憶がある。あとで「橋本博士編著書目録」(『国語学論集』所収)を見直してみると、「昭和十六年三月」に神祇院から同書が出版されている。だから、十七年には、その本を買ったのだろう。ただ、その本は、父が、北京へ持っていったが、敗戦のため、リュック一つで引き揚げてくるという状態だったから、残っていない。【以下略】

 古田東朔は、昭和十七年三月に、神祇院版で『古代国語の音韻に就いて』を読み、「一次発表ヲ明日ニ控へテ読了、大イニ感服、何時ニナレバ此レホドニナレルカ、」という感想を抱いた。その後、古田は、明世堂版の再版(昭和十八年一月発行)を買い求めた。そして備忘のため、その余白部分に、「第一回」、「昭和十七年三月十三日」、「一次発表ヲ明日ニ控へテ読了、大イニ感服、何時ニナレバ此レホドニナレルカ、」と書きとめた。
 ただし、その書き込み本が、古書店の店頭に並ぶことになった経緯については、本人にも心当たりはなかったという。【この話、続く】

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