礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その人は裏口の木戸から入って行った

2021-12-07 03:14:00 | コラムと名言

◎その人は裏口の木戸から入って行った

 あいかわらず、岡本綺堂の話である。本日は、『明治の演劇』(大東出版社、一九四二)の「守田勘彌」の章から、その一部を紹介してみよう(六~八ページ)。原文における傍点は、下線で代用した。

【前略】
 茶番や踊のお浚ひ〈オサライ〉は斯うしてたびたび見せられたが、わたしが本当に芝居といふものを見物したのは、明治十二年〔一八七九〕の三月、わたしが八歳の春であつた。その前に観た大岡政談は全然記憶してゐないのであるから、私としては実にこれが初めと云つて好い。
 この芝居を初めて見物する前に、私は初めて彼の〈カノ〉守田勘彌――新富座〈シントミザ〉の座主〈ザヌシ〉で、先代の勘彌の父――といふ人に逢つた。この前年〔一八七八〕の六月、新富座新築の開場式に在京の各外国人を招待したので、その時同じく招待をうけた英国公使館の外国人等が主唱者となつて、外国人から何か新富座へ贈り物をするといふことになつた。わたしの父〔敬之助〕は英国公使館に勤めてゐて、且は団十郎とも予て識つてゐる関係から、一応それを新富座に交渉すると、座主の守田は非常によろこんで、記念のためにどうか引幕〈ヒキマク〉を頂戴することは出来まいかと云つた。そこでいよいよその引幕――私はその下絵も実物も見たが、それは紫の絹地のまん中に松竹梅の円を繍つて〈ヌッテ〉、そのなかに新富座の定紋〈ジョウモン〉のかたばみを色糸で繍【ぬ】ひ出したものであつた――を贈ることになつて、翌年〔一八七九〕の三月興行から新富座の舞台にかけられた。
 その年〔一八七九〕の一月下旬とおぼえてゐる。日曜日の午後、わたしは近所の子供たちとー緖に、家の橫手の空地で遊んでゐた。なんでも天気の好い、あたゞかい日で、広い空地の隅に積まれてある材木の上には、二三日前の雪が少しぱかり消え残つてゐた。いつも来るおでん屋が荷をかついで、渋団扇〈シブウチワ〉を持つて通つた。このおでん屋は士族の果〈ハテ〉であるらしく、ちよん髷に結つてゐる小柄の男で、清元でも稽古したことがあるかと思はれるやうな、小粋な呼び声が今もわたしの耳に残つてゐる。わたしの父は江戸時代からこの男を識つてゐるらしかつた。そのおでん屋が通ると同時に紋付の羽織をきた立派な男が車夫に何か大きい風呂敷包みを持たせて来て、わたし達のうちで年嵩〈トシカサ〉の児にむかつて、『この辺に岡本さんといふ家はありませんか。』と訊いたので、わたしは竹馬に乗つたまゝで自ら進んで出て、『あたしの家はあすこです。』と指さして教へると、その人は につこり笑つて、『あゝ、さうでございますか。ありがたうございます。』と叮嚀に会釈して行つた。
 しかし其人はわたしの家の裏口の方から這入りさうに見えたので、わたしは竹馬を早めて追つて行つて、『あつちが門です。』と再び教へると、その人は『はあ、左様でございますか。』と更に叮嚀に会釈して行き過ぎたが、やはり裏口の木戸から入つて行つた。ひどく叮嚀な、おとなしやかな人だと、わたしは子供心にも思つたが、あとで聞くと、それが守田勘彌といふ人であつた。
 守田は今度の引幕の件について、わたしの父のところへ挨拶を述べに来たのであつた。わたしは半時間ばかり経つて家へ帰ると、守田は奥の八畳の座敷で父と頻りに何か話してゐた。声は低いがときどきに笑ひ声がきこえた。守田は帰るときに母に向つて、『今度は是非御見物ねがひます。』などと云つてゐた。その時に守田が土産に持つて来たのは西洋菓子の大きい折〔折詰〕で、風月堂で買つて来たのであつた。明治十二年頃に西洋菓子などを持ちあるいてゐるのは、よほど文明開化の人間、今日の所謂ハイカラとかモダアンとか云ふたぐひであつたらうと思はれる。父も『守田は変つた男だ。』と云つてゐた。
【後略】

 ここで、「守田勘彌」とは、十二代目守田勘彌(一八四六~一八九七)のことである。文中、「先代の勘彌の父」という言葉があるが、「十三代目守田勘彌の父」という意味である。この文章が発表された時、すでに十四代目(じゅうよだいめ)の時代になっていたことがわかる。
 岡本敬之助の家を訪ねてきた守田勘彌が、裏口の木戸から入ったのは、梨園の習俗に従ったものであろう。この習俗は、今日なお保たれているとも聞く。
 岡本綺堂の話は、このあとも続けたいが、明日は、いったん、話題を変える。

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