◎第八軍憲兵司令官の車は水色のプリモス
『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)から、木谷忠の「七戦犯の骨を探して」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
司令官邸に張り込む
当時日本人が占領軍に対してもつていた畏敬の念と恐怖感は今日では想像もつかないほどだつた。私の第八軍からの追放のウワサは新聞記者仲間で次第に尾ヒレをつけて拡がりついには「彼は拳銃を突きつけられ、危うく射殺されるところだつた」というまでになつた。一寸した英雄扱いに気を好くして、私は別にこのウワサを否定はしなかつた。
しかしとにかく第八軍からは締め出されてしまつた。仕方なしに私は方向を変えた。処刑の立役者(?)は実は第八軍憲兵司令官のはずである。そこまでは追放までに至る報い少い取材の結果わかつていた。そしてまた憲兵司令官に正面から会見を申入れても、立ち所に断られることも経験で知つていた。私は正面からではなく、後ろから常に彼の行動を監視することに決めた。事実処刑の日は的確にはわからぬながらも、極めて切迫していたのだ。彼、憲兵司令官が京浜国道を東京に向うときには、十中八九処刑が行われる日と見なければならない。私たちの任務の大きい一つは、「これから処刑」という第一報を入れることだつたのである。
憲兵司令官はフェルプス大佐といつた。私はいつもクルマを持つて、彼の動きをひたすら物理的に追い駈けた。私は時々東京の本社に出かけて、社会部とも取材上の連絡を取つたが、その連絡も他愛のないものだつた。「憲兵司令官のクルマは水色のプリモス〔Plymouth〕、横からみるとこういう形、後からみるとこういう形、ナンバープレートは右半分が白、左半分が赤に塗り分けられてあり、MP何番と書いてある」といつたたぐいの、単純極まるデータの交換に過ぎない。事実それ以上の高度の情報は占領下の日本人記者には入手しようもなかつたのである。
十二月に入つて、寒さがいよいよ厳しくなるにつれ、処刑の時期はいよいよ近づいてきた。マ元帥の再審査も終り、最後のひつかかりになつていた米国大審院への訴願も却下になる見通しがはつきりしてきた。私たちはいよいよ非常態勢に入り、昼間憲兵司令官を追いかけるばかりでなく、夜間も「深夜の処刑」を警戒して、憲兵司令官の家を張り込むことになつた。フェルプス大佐の家は、「Xエリア」と呼ばれる高台一帯の米軍用往宅地域の中にあつたが、夜の守衛が全部日本人なのをいいことに、話をつけて私は毎夜フェルブス邸の真下に張り込んだ。退屈さの余りいつか気を許しているうちに、家の前から水色のプリモスが消えているのを知つて、必死に守衛に頼み込み、とくにフェルプス邸を〝巡視〟してもらう。その後ろに足音を忍ばせてついてゆき、窓から覗き込むと彼の軍服がテーブルの上に投げ出してあるのでいくらかでも安心する、といつたような、労多くして、益少い、この張り込みは、十二月の凍るような寒空の下で、ついに二週間ばかりも続いたろうか。毎夜一応は午前一時になると、「もうこれから処刑ということはあるまい」というので、冷え切つた手足をちぢめながら、引揚げたのだつた。【以下、次回】
文中、「プリモス」は、アメリカの自動車会社クライスラー社が製造していた乗用車の名前のひとつ。今日では、「プリムス」と呼ばれることが多い。また、「Xエリア」は、横浜市根岸にあった米軍住宅地区の通称。これは、「根岸エリアX」、「根岸台エリアX住宅地区」などとも呼ばれたという。