◎『明治の演劇』は、1万5千部ぐらい売れた
今月六日のコラムで、岡本綺堂『ランプの下にて』の岩波文庫版に言及したが、その時点では、同書を読んでいなかった。その後、図書館でこれを閲覧したところ、いろいろなことがわかった。
岩波文庫『明治劇談 ランプの下にて』(一九九三年九月)には、岡本経一による「解説」が付いている。岡本経一(きょういち)は、岡本綺堂の書生をしていて、のちにその養子になった。青蛙房(せいあぼう)の創業者として知られる(一九〇九~二〇一〇)。
本日は、この「解説」の最後にあたる部分を紹介してみたい。
もともと蒲柳の質で、老来とかくに病み勝ちであったが、その年〔一九三八〕九月末から感冒が悪化して持病の不眠症を併発し、綺堂日記もここで終っている。気管支炎から更に肺に浸潤し、結局これが命とりになった。明けて一四年〔一九三九〕三月一日、真昼の午後零時三十分、死の苦渋のない平安の永眠であった。享年六八。
常楽院綺堂日敬居士。青山墓地に葬られた。
【一行アキ】
師父綺堂に逝かれた頃、私は大東出版社に勤めていて、担当のシリーズ〝大東名著選〟の中に『歌舞伎談義』と『明治の演劇』を入れさせてもらった。後者は『ランプの下にて』の改題である。昭和一七年〔一九四二〕三月刊、四六判上製カバー本で定価二円。戦時体制が強化されて、日本出版文化協会が全出版物に企画書を提出させ、発行是非の承認制を採用している頃である。ゲラ刷を見て、何部刷ってよろしいと用紙割当ての切符をくれる。出来た本は発売前に内務省に納本し、発行後それを読んだなにがし筋から、またいやがらせを受けるかも知れない。そんな時世であった。『明治の演劇』が文部省推薦本になった。「戦時下、青少年の情操陶冶に資する」という推薦のおかげで用紙の特配が貰えて、確か一万五〇〇〇部ぐらい売れたと思う。
戦後の二二年〔一九四七〕秋に復員した私は、もと春陽堂の専務だった磯部節雄の同光社が逸早く『半七捕物帳』を出して大いに売っていることを知った。二四年〔一九四九〕三月『明治の演劇』を復活してくれた。このとき「明治演劇年表」を編入した。B6判上製カバー本で定価二〇〇円、初版の三〇〇〇部は売り切った。
四〇年〔一九六五〕六月、私は青蛙房を創めて〈ハジメテ〉一〇年経っていたから、かねて戦中戦後の物資不足の頃の本を造り替えたくなって、シリーズの〝青蛙選書〟の中に、元の書名に戻して『ランプの下にて』を入れた。これが最後だろうと思って、三谷一馬画伯に頼んで図絵四二、三好一光さんに明治演劇年表の増補、私も本文にない綺堂の私的の生活面を補遺のつもりで一六〇枚書いた。これは蛇足で、自己を語ることを好まぬ先師の意に反したのではないかと、今でもふっと思い返したりする。A5判三六〇頁布装貼函入〈ヌノソウハリバコイリ〉、定価一二〇〇円、二〇〇〇部を売り切った。
五五年〔一九八〇〕六月、旺文社文庫が初めて「ランプ」を文庫化してくれた。二九四頁定価三八〇円。旺文社文庫の綺堂本は一四冊目で、その後編集方向が変わり、やがて文庫そのものを廃止してしまった。これで既刊書みんな消えた。
本にもそれぞれ寿命があるから、消えてゆくのは仕方がない。『ランプの下にて』にまだエネルギーが残っていたとみえて、思いがけなく岩波文庫に入れてもらえるという。文庫によって読者層が違うから、また新しい読者が得られるだろう。ランプさんにとってありがたいことである。
『ランプの下にて』という本を「ランプさん」と呼んでいるところに、師父とその著書に対する愛情が感じられる。
岩波文庫版『ランプの下にて』の構成などについては次回。