礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福田秘書官が憔悴し切った顔を現わした

2021-12-18 05:24:45 | コラムと名言

◎福田秘書官が憔悴し切った顔を現わした

 小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一〇、救出の計画」の章を紹介している。本日は、その二回目。

 裏玄関から表に出て見ると、衛兵所となった警官詰所は目と鼻の処にある。雪曇りの空はすっかり晴れ上って、雪を被った真白な富士の霊峰が遥かに遠くにすっきりと見える。目の前には赤坂山王下通りの谷間を隔てた高台に、近衛歩兵連隊の兵舎が三棟、手を出せば届くかと思う程近くに見えた。明治何年かには、モダン兵舎として市民の眼を瞠らせた〈ミハラセタ〉この赤練瓦三階の兵舎も、今は昔の面影もなく、殺風景な姿を晒し、近代的建築の粋を集めた豪華な首相官邸とのコントラストが面白い。
 秘書官々舎は裏門を出た反対側の約二十米の処にある。衛兵司令に対し適切な理由を考えている処へ、海軍省の山田〔三郎〕法務局長と岡田〔啓介〕総理が軍事参議官当時の副官を勤めた、平出英夫〈ヒライデ・ヒデオ〉中佐が属官一人を連れて、手に花束を持って煖房用の大煙突の陰から突然姿を現した。不味い人達が来たなと思っていると、平出中佐は私の姿を認め
 「憲兵! 岡田総理の遺骸に礼拝したいが差支ないか? 実は海軍出身の斎藤〔實〕内府邸では、もう葬儀の準備もしているが、岡田総理の方は未だに其侭になっているので、種々と官邸の将校と連絡方法で骨を折っていた所なんだが、漸く今日連絡が付いて、その許可を得て来たのです! せめてお花と焼香でもと思って其の道具を持って来た!」
 と花束を差し出し、属官が風呂敷包を携げ〈サゲ〉ているのを眼で示した。差支えない処ではない。総理の屍体が人違いである。と云う事が知れたら大変な事になる。例え、叛乱軍将校の許可があっても、憲兵として許す事は出来ない。なんとか口実を設けて追払うより外に道はないと考えた。わざと心配そうな顔をして
 「遺骸のある部屋には、屍歩哨がいて、何人とも入れて呉れません、間違いでもあると困りますから、御引き取り下さい。花束其他は憲兵が換ってお供えして置きます!」
 「駄目か? それではこれを、お供えして置いて下さい!」
 花束と属官の持った風呂敷包を、小倉〔倉一〕伍長に手渡すと倉徨として引揚げて行った。やれやれと安堵の胸をなぜ下した。平出中佐の一行が若し我々の眼に止らず、勝手に這り〈ハイリ〉込んで、松尾〔伝蔵〕大佐の死体を見て、人違いであるなどと騒わがれたなら一体どうなった事かと思うと、寒気を覚える思いであった。
 平出中佐の一行の姿が見えなくなる迄見送ってから、衛兵所の前に立った。
 「御苦労ですね! 一寸其処の秘書官々舎迄行って来ます。」
 「どうぞ!」
 至極簡単に通過する事が出来た。左側の突当りは白根〔竹介〕記官長の官舎である。官邸の反対側の道路に添って、コンクリートの塀に囲まれた二階建の建物五棟並んでいる。秘書官、内閣書記官の官舎である。一軒毎に表札を見て福田秘書官の官舎を捜そうと思った。一番手前の官舎には迫水〔久恒〕秘書官の表札が出ていた。二番目の門柱に「福田耕」の表札が出ていた。此処だな! と思い玄関に立って呼鈴〈ヨビリン〉を押した。間もなく人の気配がして鍵を開ける音がすると、ドアーが開いた。見ると十八九歳の詰襟服の書生が片手に鍵を持って、私の軍服姿に真蒼〈マッサオ〉になって慄へ〈フルエ〉ていた。
 「福田秘書官は! 御出でになりますか?」
 「ハイ! 誰…方〈ドナタ〉で…しょ…う…か?」
 「憲兵隊の小坂曹長です!」
 「一寸…お…待…ち下…さい…」
 叛乱軍と感違いしたのか! 可笑しい程に狼狽していた。暫く待っていると背広姿の福田秘書官が、憔悴し切った顔を現わした。つい二、三日前の新聞に、代議士に初当選した喜びに満ちた写真とは似ても似つかぬ容貌である。
 「私が福田秘書官です! どういう御用でしょうか!」
 用件を一刻も早く読み取ろうとする、表情である。
 「玄関では! 一寸話し難い事なのですが!」
 と、言い渋ると、では、と二階の応接間に案内して呉れた。本来なら当然靴は脱ぐ可きであったが、今の場合其侭階段を上って行った。余り広くない応接間に向い合って腰を下した。私は岡田総理の生存を、どう切り出したものかと、迷った。福田秘書官も、何事か言いたげな口元であるが言い出さない。敵か? 味方か? 福田秘書秘官の硬直した表情は容易に綻び〈ホコロビ〉そうもなかった。【以下、次回】

 小坂憲兵曹長は、靴のままで、福田秘書官の家に上がっている。参考までに、映画『二・二六事件 脱出』(東映東京、一九六二)でも、「小宮曹長」が、「速水秘書官」の家に、靴のまま上がってゆく場面がある。

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