◎暗い夜道を逃げるやうに帰つた(岡本綺堂)
劇作家の岡本綺堂(一八七二~一九三九)は、三遊亭円朝の怪談を、寄席で実際に聞いているという話を、どこかで読んだ記憶がある。最近になって、その典拠がわかった。
岡本綺堂自身が、「寄席と芝居と」という文章のなかで、子どものころに、三遊亭円朝の怪談を聞いた体験を回想していたのである。
この「寄席と芝居と」という文章を私は、たまたま手にとった岡本綺堂著『明治の演劇』(大東出版社、一九四二)で読んだ。特に、三遊亭円朝の「牡丹燈籠」を回想しているあたりは、実に名文であって、読んだだけでもゾクゾクしてきた。
以下に紹介するのは、「寄席と芝居と」のうち、「一 高坐の牡丹燈籠」の前半部分である。傍点は、下線で代用した。
附録 寄席と芝居と
一 高坐の牡丹燈籠
明治時代の落語家と一口に云つても、その真打株の中で、いわゆる落語を得意とする人と、人情話を得意とする人との二種がある。前者は三遊亭円遊、三遊亭遊三、禽語楼小さんのたぐひで、後者は三遊亭円朝、柳亭燕枝、春錦亭柳桜のたぐひであるが、前者は劇に関係が少い。こゝに語るのは後者の人情話一派である。
人情話の畑では前記の円朝、燕枝、柳桜が代表的の落語家と認められてゐる。就中、円朝が近代の名人と称せられてゐるのは周知の事実である。円朝は明治三十三年八月、六十二歳を以て世を去つたのであるから、私は高坐における此人をよく識つてゐる。例の『牡丹燈籠』『累ケ淵』や『塩原多助』も聴いてゐる。私の十七八歳の頃、即ち明治廿一二年の頃までは、大抵の寄席の木戸銭(入場料などとは云はない)は三銭か三銭五厘であつたが、円朝の出る席は四銭の木戸銭を取る。僅かに五厘の相違であるが、『円朝は偉い、四銭の木戸を取る。』と云はれてゐた。
扨その芸談であるが、落語家の芸を語るのは、俳優の芸を語るよりも更にむづかしい。俳優の技芸は刹那に消えるものと云ひながら、その扮装の写真等によつて舞台のおもかげを幾分か彷彿させることも出来るが、落語家に至つてはどうすることも出来ない。したがつて、こゝで何とも説明することは不可能であるが、早く云へば円朝の話し口は、柔かな、しんみりとした、いわゆる「締めてかゝる」と云うたぐひであった。若し人情話も落語の一種であるといふならば、円朝の話し口は少しく勝手違ひの感があるべきであるが、自然に聴衆を惹き付けて、常に一時間内外の長丁場をツナギ続けたのは、確にその話術の妙に因るのであつた。
私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせて娘子供の人気を博し、かなりに気障な芸人であつたらしい。而も明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあひだにも其技倆を認めらるゝに至つたのである。彼はその当時の寄席芸人に似合はず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にも大師匠として尊敬されてゐた。
明治十七八年の頃とおぼえてゐる。速記術というものが次第に行はれるやうになつて、三遊亭円朝口演、若林坩蔵速記の『怪談牡丹燈籠』が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現はれたのは半紙十枚ぐらゐを一冊の仮綴にした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであつた。これが講談落語の速記本の嚆矢であらうと思はれるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、併せて『牡丹燈籠』を有名ならしめ、さらに速記術といふものを世間に汎く紹介する事にもなつたのである。
私は『牡丹燈籠』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三四歳であつたが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件りを読んでも、さのみに怖いとも感じなかつた。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、聊か不思議にも思ふ位であつた。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭といふ寄席へ出て、かの『牡丹燈籠』を口演するといふので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行つた。作り事のやうであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつゞいて、怪談を聴くには全くお誂へ向きの宵であつた。
『お前、怪談を聴きに行くのかえ。』と、母は嚇すやうに云つた。
『なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。』
速記の活版本で多寡をくゝつてゐた私は、平気で威張つて出て行つた。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらはれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥んで聴きすましてゐる。伴蔵とその女房の対話が進行するに随つて、私の頸のあたりは何だか冷たくなつて来た。周囲に大勢の聴衆がぎつしりと詰めかけてゐるにも拘らず、私はこの話の舞台となつてゐる根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐つて、自分ひとりで怪談を聴かされてゐるやうに思はれて、ときどきに左右を見返つた。今日と違つて、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音が聞える。それ等のことも怪談気分を作るべく恰好の条件になつていたに相違ないが、いづれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきつてゐる。私は暗い夜道を逃げるやうに帰つた。
この時に、私は円朝の話術の妙と云ふことをつくづく覚つた。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸えさせるやうな凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いはゆる文明開化の風が盛んに吹きまくつてゐる。学校に通ふ生徒などは、勿論怪談のたぐひを信じないやうに教育されてゐる。その時代にこの怪談を売物にして、東京中の人気を殆ど独占してゐたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云へ、確に円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じてゐる。【以下略】
以上、『明治の演劇』から引用したが、本日、引用した部分に関しては、ルビが、いっさい施されていない(傍点はある)。
しかし、本日、引用した部分の冒頭、「明治時代の落語家」、「いわゆる落語」の、「落語家」と「落語」については、それぞれ、「はなしか」、「おとしばなし」とルビを振ってほしかった。特に後者は、ルビがないと意味が通らない。
今日、「寄席と芝居と」は、青空文庫に収録されている。底本は、旺文社文庫の『綺堂芝居ばなし』(一九七九)だという(ブログ子は未見)。そこでは、本文校訂がなされ、ルビも施されている。本日、引用した部分の冒頭、「明治時代の落語家と一口に云つても、その真打株の中で、いわゆる落語を得意とする人と」のところは、青空文庫では(旺文社文庫では)、「明治時代の落語家【はなしか】と一と口に云っても、その真打【しんうち】株の中で、いわゆる落とし話を得意とする人と」と校訂されている。
青空文庫は、「寄席と芝居と」の初出を、(昭和一〇・舞台)と記している。おそらく初出には、ルビが施されていたのであろう(ブログ子は未見)。
それはともかくとして、この岡本綺堂の回想は貴重である。「速記本の嚆矢」についての情報も貴重であり、速記本を読んで「さのみに怖いとも感じなかつた」綺堂が、実際に、円朝が語るのを聞いて、頸のあたりが「冷たくなつて来た」という証言も貴重である。
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