礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

われわれは必死に幌トラックのあとを追った

2021-12-28 00:01:01 | コラムと名言

◎われわれは必死に幌トラックのあとを追った

『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)から、木谷忠の「七戦犯の骨を探して」という記事を紹介している。本日は、その三回目。

   右翼の残党と間違えられる
 この間、われわれはまた横浜市内の火葬場めぐりもした。処刑された七戦犯の死体はおそらく第八軍管轄下の横浜に運ばれて、市内どこかの火葬場で火葬されるということは、どうやら大体確実のようだつた。久保山、元町、根岸などいくつかの火葬場を訪ねて、処理能力などを聞いてみると、結局可能性のあるのは、久保山火葬場と山手の高台にある米軍墓地の二つにしぼられてきた。われわれはいざというときには、この二つの場所に張り込むことを決めた。
 クリスマスが近づいて、街にクリスマス・トゥリーとサンタクロースが氾濫し出した頃とうとうそのいざという日が来た。いろいろの点からみて、十二月二十一日と二十二日が最後の日とみられた。時刻はおそらく深夜という見込みも強かつたので、われわれの夜の張り込みはますます真剣なものとなった。そしてついに二十二日の夜十時過ぎ、凍りつくような星空の下をフュルプス大佐が一人階段を降りて水色のプリモスに歩み寄るのを私は見た。車が走り出すのと同時に私はかねて頼んであつた崖下の民家に飛込んで「出たゾ!」という一言の一報を入れた。間もなく、京浜国道への分岐点に配置してあつた別の見張りからも「水色のプリモスが東京へ向つた」と第二報が送られた。
 この苦心の第一報、第二報が新聞にとつてまた世の中の人々にとつて、何程の役に立つたか、よく分らない。しかしわれわれにはそんなことをいつている間はなかつた。直ぐ全員が支局に集合し、三班に分けて、一班は久保山火葬場内の茶屋の中に泊り込み、一班は 山手の米軍墓地門前に張り込み、一班は市内の要点に立番〈タチバン〉して、東京から死体を運ぶトラックが入つてくるのを見張つた。
 私は米軍墓地に割当てられた。人家のない淋しい高台の上の墓地の、鉄条網の外に私は同僚と二人震えながら立つていた。二十三日の午前二時半ごろ、私は鎮まりかえつた街のかなり遠いところを重いトラックが走るような音をきいた。音はすぐ消えた。そして私は寒さで、思考力も体を動かす力も萎えてしまつたまま、ただ時間の過ぎるのを待つていた。六時ごろ空が白んでくると、ようやくぼんやりした頭がいくらかずつ動き出した。二時過ぎに聞いたあの音が気になつた。墓地の門を守る米兵にこの墓地には裏口もあるのかと聞くと、「ある」という。慌てて裏口にかけつけると、いる、いる、二台のホロ〔幌〕をかけたトラックと二台のジープが。ホロ・トラックの中にはおそらくずつしりと重い七つの棺が乗つているのだろう。間もなく、七時過ぎトラックはジープの先導で墓地の門を出た。久保山火葬場に向うのだ。火葬場のオンボウが、〝出勤〟する時間でも待つていたのであろう。
 われわれはむろん必死にホロ・トラックのあとを追つた。幸い他社はだれもいない。好機とばかり、トラックについて、火葬場に飛込もうとすると、殿り〈シンガリ〉をつとめていたジープから、数人の米兵が飛び降りて、グルッと入ロを取り囲み銃剣のついた銃を構えてわれわれをにらみつける。彼らはシンから真剣な表情だ。あるいは狂信的右翼の残党が死体の奪還をはかるかも知れないといつた想定も米軍のアタマにあつたのではないだろうか。【以下、次回】

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