◎「これだ! これですよ! これで行きませう!」
あいかわらず、小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の紹介である。同書の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一一、救出決行」の章を紹介したい。
一一、救 出 決 行
裏門の衛兵所前では、小倉〔倉一〕伍長の懐柔工作が行われていた。
「首相秘書官を、総理の遺骸のある部屋迄案内します!」
と、司令〔衛兵司令〕に断り、小倉伍長に従いて〈ツイテ〉来い、と、眼で合図して、玄関正面の応接間に這入った。懐柔工作の効果か、裏門は簡単に通過する事が出来た。何から何迄順調に事が進んでいる。
「福田さん、青柳〔利一〕軍曹と小倉伍長です」
福田〔耕〕秘書官は、この若い元気潑刺とした、凛々しい憲兵の姿に頼毋しそうに眼を輝し、
「福田秘書官です! 何分共に宜敷しく御願致します」
感激の涙を新たにして、青柳、小倉の手を固く握り締めた。
「福田さんも、私達と同じように、昨日から総理の救出で、苦労しておられたのです! これから四人でよく相談して、どうして救出するかを決めたいと思う。お互に遠慮のない意見を出して検討する事にしませう!」
椅子を近寄せて腰を下し、額を集めて、相談し始めた。
「福田さん! 貴男〈アナタ〉は官邸の情況には一番詳しいのですが、何か良いお考えは有りませんか」
「迫水〔久常〕秘書官とも、昨日から脱出に就いて、随分検討して見たのですが、官邸に這入る事でさえ、容易な事ではないのです。総理や女中の食事を運び入れるにも、一苦労も二苦労もして来ましたような状態で、差し当り之と云う案も今の処有りません。」
沈痛な面持〈オモモチ〉で、力なく答えるのだった。
「どうでせう! 女中二人を早く引取れと、栗原〔安秀〕中尉も云っているので、女中を引取る、と、云う事にして、其の時に何とか胡魔化して、一緒に出す事は出来ませんか?」
と、青柳が意見を述べた。成程良い思い付きである。
「女中が出る時に、総理を女中の父親とか、亦、官邸の守衛か、小使かに仕立て、一緒に出す事にしたらどうでせう?」
と、小倉が云った。
「福田さん! 守衛か小使の服が簡単に手に入れる事が出来ますか?」
「行動が制限されていますので、一寸困難です。それも結構な案と思いますが、実は迫水君とも一応考えては見たのですが、これで行くと総理が危険な場面に身を曝す事が多いのです。例えば女中を引取る、と、云えば将校か下士官が立ち会うでせうし、亦女中を自動車で云う事も不自然で、徒歩となると警戒線が多過ぎる。と云う事になります。此点で如何でせうか?」
絶対安全とは言い難いが、それではこれに優る案があるのか。
「官邸の非常口は利用できませんか?」
「日本間から庭に出て、地下道で赤坂溜池に抜ける道はあるのですが、昨朝其入口で、清水巡査が殺されていましたので、抜け道のあることを兵隊が知っていると思いますので、使えません!」
「それに裏庭の正面に歩哨が立っていますから駄目です!」
と、青柳が附言した。脱出の具体的方策は行詰って仕舞った。今朝分隊を出てから半日、一体外部の情勢は今、どんなになっているのか、我に有利か? 不利か? 全然見当が付かない。何れにしても脱出は一刻も早いに越した事はない。焦燥感に狩り立てられ、気が気でない。稍々〈ヤヤ〉もすれば絶望的な感情に陥り、胸苦しい時が過ぎる、悄然としてうなだれていた福田秘書官が、突然輝かしいまなざしで
「実は今朝早く、陸軍大臣の小松〔光彦〕秘書官から、何か困った事があれば、こちらから栗原中尉に連絡してやる、と云うて来ましたので、せめて総理の近親者だけでも、官邸に入れて、総理の遺骸に焼香させて戴きたいと、依頼して置きましたが、これを何とか利用出来ませんでせうか?」
官邸に弔門者を入れる、今迄全く考えも及ばなかった事である。これだ! と、思わず心で叫んだ。
「これだ! これですよ! これで行きませう!」
自分の声の大きいのに、驚いて四辺を見廻した。
「福田さん! 総理を弔門者に紛れて脱出させる、これが一番安全です。これでやりませう」
死中に活路を見出したとでも云うか、悩みに悩み抜いた後だけに、まるで鬼の首でも取ったような嬉しさが込み上げて来た。【以下、次回】
文中、「弔門者」は、「弔問者」とすべきところであろうが、原文のままとした。以下においても同様。