礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福田秘書官は両手をひろげ私に抱きついてきた

2021-12-19 03:27:32 | コラムと名言

◎福田秘書官は両手をひろげ私に抱きついてきた

 小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)の「Ⅲ 二・二六事件秘史」から、「一〇、救出の計画」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 「実は…重大な御相談があって、御伺いしたのです!」
 「重大な御相談? 御相談と云うと一体どんな事でしょう!」
 全く予期しない態度だった。私は福田〔耕〕秘書官が進んで総理の救出を求めて来るとばかり思っていた。知っていてとぼけているのか、全く知らないのか見当が付かなかった。何時迄も探ぐり合いをしていても仕方がないので、単刀直入に切り込んで云った。
 「福田さん! 官邸の女中部屋にいる老人を一体どうするお積りですか?」
 女中部屋にいる老人! の一言が、福田秘書官の肺腑を衝いた、烈しく狼狽した秘書官は
 「女中部屋の老人!」
 と聞き返したが、後の言葉が出なかった。憲兵が敵ではないと云う事を幾分察知したものの、未だ不安の気持は去らない様子である、私は畳み掛けて云った。
 「女中部屋の押入の中にいる、岡田総理をどうする積りです! 私は総理を救出に来たのです!」
 秘書官の硬直した表情は、俄かに輝き出すと、躍り上る様にして立上り、 昂奮して両手を拡げいきなり私に抱き付いて来た。両眼には止めどなく涙が流れている。
 「有…難う… 有難う!」
 昂奮の極。思う事が胸に迫って存分に喋れない。喜びの感情が迸り〈ホトバシリ〉出るようである。この劇的シーンに私も貰い泣きをした。何時の間にか両人の手は、本当に血が通うかと思う程に固く握り合っていた。漸く落着〈オチツキ〉を取戻した、福田秘書官は
 「有難う! この御恩は生涯忘れません!」
 急に元気付いて昨日以来の苦悩の一昼夜を話し出した。
 「実は昨日の午前中に総理の無事である事を知りました。いつ発見されるかも知れない危険な敵地に、ぢっと息を殺して潜んでいる、総理の事を思うと、居ても、立っていられません。迫水〔久常〕秘書官と額を集めて種々と相談はして見ましたが、此の状態ではどうする事も出来ません。 昨晩も一睡もしないでこの事ばかり考え続けて来ました。」
 「福田さん! 私も同じです! 昨日午後総理の生存を知って以来、その救出を決心して、首相官邸に潜入する機会を窮っていたのですが、昨日は遂にその機会がなく、今朝早く分隊を出て、漸く官邸に這入る事が出来ました。随分苦労をして来ました。」
 思いは期せずして一致している、又しても涙が溢れ出る、嬉し涙である。
 「福田さん! 官邸に私の部下で最も信頼出来る、青柳軍曹と小倉伍長の二人が待機しています。直ぐ行って脱出の実行計画を樹てませう!」
 「一寸お待ちして下さい! 直ぐ支度をして参ります!」
 全く生気を取り戻した秘書官は、足取りも軽く階下に降りて行った。福田秘書官を得た事は、百万の味方を得たよりも心強く嬉しかった。
 表に沈着、機敏取に当る青柳、小倉の腹心あり、裏には主人を思う忠実な女性二名がいる。是に福田秘書官を一枚加えた陣容は、完璧に近いものと思った。これで三百名の叛乱軍将兵の注視の裡〈ウチ〉に、豪壮な雪の首相官邸をバックとして、正に幕を揚げようとする、大芝居の立役者は揃った。後は演出である、この命を賭けた大芝居を、如何に巧妙に筋を運ぶかは、演出家の手腕に待つより外にない。各々の意気がぴったりと一体となり、其の持役を十二分以上に発揮しなければならない。誰一人がとちってもやり直しの出来ない本番である。其結果は火を見るより明らかである。全員が演出家であり、亦、主役者でもある。四人顔を合せて緻密な打合をしなければならないと思った。
 やがて身支度を整えた福田秘書官が自から、熱い紅茶を持って入って来た。
 「御持遠様でした。一杯如何ですか?」
 「有難う御座います。戴きます!」
 今朝早く分隊を出てから、水一杯も飲んでいない、この一杯の熱い紅茶の味は、未だに忘れる事の出来ない程に美味かった。私は正門で拾った拳銃を出して
 「福田さん、万一の場合にこれをお持ち下さい」
 と、安全弁を脱して手渡した。福田秘書官は表情を曇らせて、拳銃を見詰めながら 
 「これを使うような事になるでせうか?」
 「最悪の場合です! 出来得る限り必要としないようにしたいと思ってはいますが!」
 「是非さう云うようにして戴きたいものです!」
 と、しょげ切って考え深かさうに云った。
 「サア!、それでは一緒に官邸に参りませう!」
 「裏門の出入は大丈夫でせうか?」
 「大丈夫です! 御安心して委せて下さい!」
 自信たっぷりに云って力付けてやった。

 文中に、「官邸の女中部屋」とあるが、厳密に言えば、「官邸日本間の女中部屋」である。同じく文中、「安全弁を脱して」とあるのは、拳銃の安全装置を解除して、つまり実弾が出るようにして、という意味である。「脱して」の読みは不明、あるいは「はずして」か。
 ここまでが、「一〇、救出の計画」の章である。明日は、引き続き、「一一、救出決行」の章を紹介する。

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