礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

荒川清二君の生活こそ模範的な戦時生活である

2015-02-01 07:39:48 | コラムと名言

◎荒川清二君の生活こそ模範的な戦時生活である

 昨日の続きである。月刊誌『富士』の一九四四年(昭和一九)一月号から、佐藤通次のエッセイ「戦ふ科学者」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日紹介した部分に続き、改行して次のようにある。

 次に睡眠時間が少くてすむこと。それまで大飯を食つてゐた頃は、八時間、九時間の眠りをむさぼつて、それでもすつきりしなかつたのが、玄米食(一日約二合)をやり出してからは、五時間くらゐの睡眠で十分足りるやうになつたさうです。デング熱の研究の最中には、数日間殆ど徹夜をしたのですが、一向大した疲労も感じなかつたといひます。
 それから又、以前には非常に神経質で、周囲の人達はビクビクしてゐたのですが、気質まで変つて、大層快活になつて参りました。
 また体重もだんだん増して、五六ケ月の間に一貫目も増えるほど健康が増進したさうです。荒川〔清二〕君は、元来軍人を志し、士官学校に入つたのですが、結核を患つたために退校して、医学の方に向つたのです。それが玄米食をやり出してから、二人分も三人分もの働きが出来るやうな、ガツチリした体に変つてしまつたのです。今では元気に溢れた健康状態で研究にいそしんでをります。
 見よ、この簡素生活
 もう一つ、玄米食の効験として彼が喜んでゐることは、生活費が極めて安く上り、副食物についての心配が殆どないといふことです。五十五円の月給の中、食事に要する金は僅か八銭ですむさうです。これに部屋代を加へたところで知れたものです。唯今は弟さんを引取つて、下宿で自炊をしてゐますが、食費が二人ですと割安になつて高高十三円ですむさうです。玄米の外は配給の野菜と味噌汁だけくらゐで、魚や肉などは配給があつても殆ど貰ひには行かないさうです。それで兄弟とも極めて健康なのですから、私達は大いに考へさせられます。
 生活費がこのやうに少ししかかゝらぬので、残つた金で彼は大概本を買ひます。時に公債の割当でもあれば、本の購入に手心を加へれば、十五円でも二十円でも悠々と応じられるのです。
 荒川君の玄米についての研究は、数部の冊子となつて纏められてありますが、これが昨年、政府の玄米国策を決定する上の最も有力な学術的根拠となつたのださうです。月給五十五円の青年学徒の研究が国策を動かす、思ふだに愉快ではありませんか。
 戦〈イクサ〉の主力は銃後に
 私が荒川君のことをお話したのは、一つには日本人の科学に対する才能について、国民一般に信頼を持つて貰ひたいこと、もう一つには、同君の生活こそ模範的な戦時生活であつて、各人がこの域まで徹底するならば、日本の食糧問題については、何らの不安もないといふ自覚をもつて貰ひたいからです。
 今日の戦争において、直接敵と見える〈マミエル〉第一線の将兵は、いはゞ尖兵であります。戦ひの主力は、寧ろ生産に従事する国民であり、また発明、発見にいそしむ学徒であるのです。
 荒川君の場合は、偶々私が直接に知つてゐる一例に過ぎないので、このやうな心意気を以て奮闘してゐる学徒は、他にも無数にあるのです。だから例へば航空機においても、新司偵、呑龍、鍾馗などの世界最優秀の兵器が完成したわけでせう。科学においても、皇国日本は、断じて米英に負けるものではなく、洵に心強いものがあるのであります。(終り)

 文中、「政府の玄米国策」とあるのは、一九四二年(昭和一七)に、閣議で、「玄米食の普及」が正式決定され、一九四三年(昭和一八)ごろから玄米食普及の国民運動が大政翼賛会の指導のもとに展開された(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-138.html)ことを指すのであろう。
 荒川清二医学士のデング熱研究、玄米食研究については、まだ述べたいことがあるが、明日は話題を変える。

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