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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎教授と山折哲雄講師

2015-02-05 09:28:04 | コラムと名言

◎家永三郎教授と山折哲雄講師

 再度、山折哲雄著『日本の「宗教」はどこへいくのか』を採り上げる。ただし、これを本格的に論ずる用意はなく、とりあえず本日は、軽い話題で。
 同書五五ページ以降で筆者は、家永三郎との交流について述べている。それによれば、山折哲雄氏は、一九七〇年(昭和四五)九月に、春秋社から、『人間蓮如』という本を刊行した。当時、東京教育大学文学部教授だった家永三郎が、その本を読み、「それが直接の縁で」、山折氏は、「翌四六年の四月から、家永さんの勤務先である東京教育大学の歴史学科で、週一度の非常勤講師をつとめることになった」という。
 ウィキペディアによれば、山折哲雄氏は、一九五九年(昭和三四)に東北大学の大学院博士課程を「単位取得退学」したあと、一九六九年(昭和四四)に春秋社に入社している。『人間蓮如』を刊行したとき、あるいは、東京教育大学の非常勤講師を務めていたとき、なお春秋社に籍があったのかどうかについては知らない。
 いずれにしても、このとき、山折氏が、家永三郎教授の「引き」によって、東京教育大学の教壇に立つことになったことは、その後における氏の学問的な活動にとって、大きな意味があったのではないだろうか。
 ところで、同書のページには、山折氏が、家永三郎教授の研究室を訪ねたときの様子が描写されている。ここは、引用させていただこう。

 昭和四六年〔一九七一〕の四月、最初の講義に出る直前、人影のまばらな寂しいキャンパスを通って、家永さんの研究室を訪ねた。扉を開け中に足を踏み入れて、思わず目を見張った。書棚の本はほとんど運びだされたあとで、がらんとした、だだっ広い部屋の中に突然立たされることになったからだ。みると、何もない大きな部屋のまん中に古びた大きな机が置かれ、それを前にした痩身の家永さんが、背筋をぴんとのばして座っておられた。
 腰をおろした私にむかって、家永さんは挨拶もそこそこに一息にいわれた。
「いま、私は親鸞の心境になったような気がしています……」
 深い吐息の音がきこえてくるような、状況に悪化にひそかに抗っているような、そんな重苦しい思いをこめた声だった。その声の響きが、がらんとした部屋の高い天井に吸いこまれていった。家永さんの表情には疲労の影か色濃くにじんでいたように思う。日本の近現代の思想史研究に軸足を移し、教科書訴訟に全力を傾注しているさなか、東京教育大学の廃校という事態に立ち会わなければならなかったご自分の運命をしみじみ噛みしめておられたのだと思う。

 人影のまばらな寂しいキャンパスに、がらんとした研究室。いかにも、廃校を目前にした大学というイメージである。
 私ごとになるが、一九六八年度(昭和四三)から一九七一年度(昭和四六)まで、私は、東京教育大学文学部に在籍し、文京区大塚のキャンパスに通っていた。この間に大学紛争があって、まともな授業を受けた記憶はないが、とにかく単位を搔き集め、四年間で卒業した。特に、一九七一年度は、許せる限り多くの講義を選択し、毎日、朝から夕方まで講義に出たし、夏休みには、集中講義も受講した。そうしなければ、四年間で卒業することができなかったからである。
 他の学生に対応も似たようなものだった。したがって、一九七一年度について言えば、キャンパス内には、けっこう多くの学生がいた。山折氏は、「人影のまばらな寂しいキャンパス」を見たというが、たまたま年度初めだったからではないのか。
 それから、家永三郎は、一九七七年(昭和五二)に定年退官するまで、東京教育大学に在籍し、その年に中央大学教授に就任している。ということは、一九七一年度から一九七六年度までの六年間は、がらんとした研究室を使用していたということになる。この間、講義もおこなっていたと思うが、だとすれば、蔵書・資料の片づけは早すぎたのではないだろうか。【この話、続く】

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