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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された

2015-02-26 05:37:51 | コラムと名言

◎『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された

 昨日の続きである。昨日、図書館に行って、中村秀之氏著『敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画』(岩波書店、二〇一四年一〇月)を借りてきた。山伏たち一行が、「大空に溶け込んで」しまったという解釈の当否を検討したかったからである。
 それについて検討する前に、まず事実関係を押さえておこう。
 中村秀之氏は、その著書『敗者の身ぶり』において、次のように述べている(一九~二〇ページ)。
 
 製作主任を務めた宇佐美仁〈ウサミ・ヒトシ〉の談話も森岩雄の回想を支持するものだ。注目すべきことに、宇佐美によれば、黒澤明が『安宅』の映画化を思いついたのは八月一五日だった。
《そもそも『どっこいこの歌』というのを作る予定だったが、馬がいないとかいろんな理由で出来なくなっちゃって、じゃあどうするって皆で芝生に坐って話した。とにかく大河内さんの主役で黒澤さんのもの、というのだけは決ってたんで、あの頃クロさんもお能にこってたから『安宅』ならすぐ出来るってことになったと思う。あれはたしか、終戦の詔勅を聞いた日じゃなかったかな。》
 宇佐美の記憶が正しけれぱ、そして「終戦の詔勅を聞いた日」というのが「詔勅を聞いたあと」を意味するのであれば、後述する『虎の尾を踏む男達』の解釈、つまり義経を天皇と見立てる読解に関連して興味をそそられる証言である。
 さらに、源義経を演じた岩井半四郎(当時の芸名は仁科周芳)は、一九九四年五月一〇日に文芸坐で行なわれた黒澤明特集におけるトーク・ショーで、製作時期についての「通説」を否定した。映画評論家の白井佳夫との対談での発言である。岩井は『海軍いかづち部隊』の撮影で千葉の館山に滞在していたが、敗戦で製作が中止になり、東京に戻ったあとに『虎の尾を踏む男達』がクランク・インしたという。「たしか十五日に敗戦で、二十日からこれに入ったと思います」。その後の二人のやりとりは以下の通りである。
 白井 通説によりますと、戦争中に、この映画を撮影したと言いますが?
 岩井 それは絶対にウソでございます。終戦後なんです。
 白井 十五日に敗戦になって、それから五日後にクランク・インした?
 岩井 はい。
 白井佳夫はこの発言を『キネマ旬報』の連載記事で紹介し、「もちろんこれは、文芸坐2のステージ上で、公式発言としておっしゃったことである」と念を押している。

 この映画に関わった森岩雄(当時、東宝の重役)、宇佐美仁、岩井半四郎の三人が、「通説」を否定している。
 白井佳夫氏の発言の中にも「通説」という言葉があるが、この通説というのは、この映画が、戦争末期に製作され、敗戦直後に完成したというものであり、これは、黒澤明自身が流布していた説だという。
 中村秀之氏は、引用部分に続けて、さらに文献資料四点を挙げ、通説を完全に否定している。この映画が、敗戦直後に着想され、敗戦直後に作られた映画であることは、ほぼ間違いない。
 さて、山伏たち一行が、「大空に溶け込んで」しまったという解釈であるが、たしかに中村秀之氏は、同書において、そのような捉え方を示されていた。しかし、これについて私は、疑問なしとしない。【この話、さらに続く】

*昨日は、どういうわけかアクセスが急騰し、歴代2位でした。

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