日本男道記

ある日本男子の生き様

25:三世坂田半五郎の藤川水右衛門

2012年10月28日 | 東洲斎写楽撰 全40点
25:三世坂田半五郎の藤川水右衛門

この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する大敵役の藤川水右衛門を描いた作で、藤川水右衛門の名は、歌舞伎狂言の敵役中でも、有名な大悪逆人で知られている。写楽はこの大悪人を印象的に描いて半身図中屈指の傑作としている。着物は薄墨、襟の黒、袖口の濃緑、ただそれだけの地味な色彩でこの絵はまとめられている。最少の配色゛最大の効果を見せるのは写楽の特色で、この図は最もよい例である。またこの絵のすぐれた点は、その顔面描写にある。突き出した顔は不気味で、鬼気があり、凄みがある。ぐっと見る人に迫ってくる思いがする。眼隈が薄墨であるのも大悪人の雰囲気となっている。とにかく、写楽の気魄に押される絵である。すべてが地味で、背色の黒雲母がそれほど効果を見せた絵も少ない。

三世坂田半五郎は、当時実悪の「上々吉」で、悪方の役者として知られていた。前名は坂東熊十郎、天明三年三世を継いだ。寛政六年は二世半五郎の十三回忌に当たるので、二世の当たり役水右衛門を先代追善のために、この狂言を上演したという。しかし半五郎は翌年の六月、三十九歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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24:二世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛 中山富三郎の梅川

2012年10月21日 | 東洲斎写楽撰 全40点
24:二世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛 中山富三郎の梅川

この絵は、写楽第二期の作品であり、第二期作品中全身二人立図七枚の内、これだけが白雲母背色でなく、黒雲母摺作品である。寛政六年八月の桐座の二番目狂言、梅川忠兵衛の芝居「四方錦故郷旅路」の大詰道行浄瑠璃の「月眉恋最中」の場を描いた作である。この図は実に歌舞伎味が豊かに表現されている絵で、歌舞伎の色彩、型、音楽、そして技芸、そうしたもののすべての情緒的な美しさがこの絵に盛られている。「二十日あまりに五十両つかい果して二分残る」の死出の道行きである。せめて一目親に逢ってと、忠兵衛の親里新口村へ落ちていく二人の心根は、舞台上の詩情であり、またこの絵に漲る詩情でもある。対の小袖、相合傘の二人連れは、歌舞伎の基調色である背色の黒雲母から浮かび上がって、画面はひろい舞台面となって、われわれを陶酔の境へと導いていく。まことに舞台美再現している役者絵の極致とも言うべきである。音楽的な描線の暢達(ちょうたつ)、衣裳と顔面、手足との配色美、もちろんこれらが適切にこの絵を美しいものにしている。

三世市川高麗蔵については、「三世市川高麗蔵の志賀大七」の解説に記してあるが、中山富三郎は、寛政から文政にかけてのすぐれた女形で、上方から下って四世松本幸四郎の門弟となり、女の情のこまやかさを表現すること無類といわれ、「ぐにゃ富」のあだ名があった。文政六年九月、六十歳で没した。なおこの人は、三世高麗蔵の妹婿である。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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23:三世市川八百蔵の田辺文蔵

2012年10月14日 | 東洲斎写楽撰 全40点
23:三世市川八百蔵の田辺文蔵

この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する、石井兄弟の内、源蔵が返り討ちにあう場で水右衛門に太股を斬られて足なえとなり、貧にせまり、妻おしづは病み、自分は躄車(いざりぐるま)にのるというような悲運の人である。その寂しさが、そのやつれが、胸もとで組み合わされたいじけたような両腕にも、両肩の落ちた、そして猪首につき出された首筋の弱々しさにも、のびた月代にも、後ろ毛にも、うつろのような眼にも十分に把握されている。また、衣裳は「肩入れ」といって、零落した男女に用いるもので、肩、袖口に別なきれをはぎ合わせた着物で、この文蔵の貧しさが示されている。色といえば、黒とベニガラ色の二色で、僅かに袖口に緑色がのぞいているにすぎない。これほど役柄とその雰囲気が描破されている絵も少ないといえよう。

三世市川八百蔵は、三世沢村宗十郎の実兄で、最初は女形で二世菊之丞の門弟で瀬川雄次郎といったが、安永六年立役となり、文化六年には助高屋高助と改めた。文化元年、七十一歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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22:二世瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木

2012年10月07日 | 東洲斎写楽撰 全40点
22:二世瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木

大岸蔵人の妻のやどり木で、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」登場する。この絵は「三世佐野川市松の白人おなよ」の解説で記したことと同様のことのいえる作品である。着物は朱赤であり、うちかけは黒地に紅白の菊の散らし模様で、いかにも派手である。これに比べて富三郎の顔は長く、眼は小さく、顎の骨は四角く張っていて、決して美しいとはいえない。この顔と着衣とは釣り合ってはいない。しかし、それでいてこの絵に全体としての均衡がこわれている感じは全くない。試みに、「三世宗十郎の大岸蔵人」とは夫婦役であるから、これを並べて置いて見るといい。宗十郎の端正さに対し、富三郎の奥方としての風格は決して不均衡ではない。つまり富三郎の顔面が、男のような固さがあって美しくなくっても、写楽は女形としての富三郎の舞台上の生きた姿を描いているから、そこになんの不均衡もなく、この絵一枚だけ見たとしても、顔と着衣の不均衡など感じられないのである。写楽は女形は美しく描くべきであるとは考えていない。舞台の上の役者、その芸、芸質ほとらえることが意図であった。

二世瀬川富三郎は、三世瀬川菊之丞の弟子で、天明四年に富三郎を襲名した。一生師の菊之丞の芸を真似たといわれるが芸達者であった。芸風から「にく富」「いや富」と綽名された。文化元年三月に没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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21:二世市川高麗蔵の志賀大七

2012年09月30日 | 東洲斎写楽撰 全40点
21:二世市川高麗蔵の志賀大七

この絵は写楽の作品中代表作の一つである。寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」の内の敵役の志賀大七がこれである。この図は色彩でも構図でも実に単純な絵である。それだけに印象的で感銘に力強いものが感ぜられる。焦点はそのマスクである。長い顔に高い鼻、しゃくられた長い顎、紅の眼隈に彩られた、ぐっと睨んだ物凄いくぼんだ眼の光、三世高麗蔵の特異なマスクが、圧力をもってせまってくる思いがする。まさにヌボーとした気味の悪い敵役の典型的雰囲気といっていい。さらに、これに効果を与えているものが、内懐から出して、刀の柄頭を握ったポーズである。黒の着付けがさらにこの絵に雰囲気を盛り上げている。そしてこの単純な色彩に、僅かに着物の裏の濃い茶色はほんのちょっとのぞいた襦袢の赤が加わっているだけで、高麗蔵という役者のもつ色気をここに表している。そこに写楽の役者描写の極致がある。

三代目市川高麗蔵は、四代目の実子で、安永元年九歳のとき高麗蔵という名になった。天明三年に立役になり、寛政十年に実悪となり、享和元年に五世幸四郎を襲った。眼はくぼみ瞳は小さく凄みがあり、鼻の高いのが特徴で、俗に「鼻高幸四郎」と呼ばれた。若いときはやつし方であったが、実悪に転じてからは名声を高めた。芸風は繊巧で豪放、しかも写実的であった。一世の名優として天保九年五月、七十五歳で没した。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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20:坂東善次の鷲塚寛太夫の妻小笹 岩井喜代太郎の鷲坂左内の妻藤波

2012年09月23日 | 東洲斎写楽撰 全40点
20:坂東善次の鷲塚寛太夫の妻小笹 岩井喜代太郎の鷲坂左内の妻藤波

この絵は坂東彦三郎の鷲坂左内の絵と同じく、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の登場人物であるが、つまり善人悪人の二人の妻を描いている。第一期作品中二人立半身像は五枚あるが、この図だけが対面でなく、同一方向を向いた構図となっている。そのために、構図的にいささか平板である。また描線が多いのも写楽の画法としては異色である。また同じ系統の色彩が、二人の打掛と帯の色に用いられているのも疑問である。しかし、これらの点があったとしても、坂東善次の屈曲のある力強い性格描写には写楽の鋭い芸術力が見られる。悪方の女形としては圧巻である。これに対して、喜代太郎の屈曲のない、おだやかな顔には善人方の女形の雰囲気が十分見られ、着附けの薄紅に年の若さが示されている。また二人の手の描写にも善悪の姿が見られる。二人の眼の形は違うが、目線が合っているのは、伊達の与作と乳人重の井の二人にそそがれているであろう。これでこの絵は生きている。

坂東善次は当時実悪方であったが、そう上級の役者ではなかったが写楽は善次をこの絵の外にも描いている。そのマスクを写楽は好んだのであろう。岩井喜代太郎は、半四郎の門弟で天明七年、かるもから喜代太郎となった。寛政六年当時は、「上上半白吉」の位にあり、第一流の女形ではなかった。写楽はつねに上級の役者ばかりは描いていない。そこに特色がある。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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19:三世坂東彦三郎の鷲坂左内

2012年09月16日 | 東洲斎写楽撰 全40点
19:三世坂東彦三郎の鷲坂左内

寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場する人物鷺坂左内を描いたのがこの絵である。この狂言の由留木家の御家騒動で悪人方は鷲塚官太夫で、善人方は鷺坂左内である。この図は伊達の与作の勘当場の左内であることが絵本番附によってわかる。端正な彦三郎の風貌が、この役にぴったりであることが、その顔の輪郭、眼の上の中途からひかれたマブタの筋の弧線と引き上げられた眼、力強い唇の線などによって十分把握されている。いかにも切実味のある表情である。そして構図的に、ここにも写楽独特の類似型描写が見られ、つまり左内の左向きの顔と右手にもつ雪洞の形の類似の二つが左右にあって、この絵に安定が与えられている。色彩は濃く、濃紫の着付けと橙色の肩衣が、写楽としては珍しく濃厚で、この配色いささかしつっこい。しかし、この絵が夜であることを考えると、写楽の意図もそこにあったのではないかと考えられる。

三世坂東彦三郎については、第九回配画の解説に記してあるが、「場当たりを好まず」「コセつかぬ芸風」の評語そのままがこの絵に現れ、「至って実体なる気質、民俗律義なり」の彦三郎の性格も表現されている。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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18:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ

2012年09月09日 | 東洲斎写楽撰 全40点
18:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ

この絵も寛政六年五月都座上演の「花勝負文禄曽我」の登場人物である。
これは第二回配画の半身二人立図に市川富右衛門の蟹阪藤馬とともに描かれている市松と同じである。
この絵は、写楽の絵を漫画とし、醜しとする人にとっての好例であるかもしれない。
狐のような大きな顔、全く男のような目鼻立ち、それに対して派手な衣裳であり、島田髷にかんざし、身体の矮小なところは、いかにも奇態である。
しかし、ここに写楽の芸術の実態を認めなければならない。
それは、市松は女形であるということである。
実際に女であれば、これは奇態であろう。
しかし男である女形が女に扮した、その現実をこれほど描きえた作品は、多くの役者絵中に見ないところである。
写楽以前の、また写楽以後の女形を描いた役者絵は、いずれも女形の顔をあたかも女性であるが如く美化して描いている。
しかし、実際において舞台の上の女形の顔はどうであろうか。
それは今日テレビの舞台中継の大写しのとき、誰でもが感ずるところであろう。それでいながら舞台上の女形は実際の女以上に女らしい。
それは芸の力である。
この事実を考えれば、この狐のような顔に迫真の描写力に驚嘆するのである。
つまり男が女に扮するという、世界に類のない女形というものの真髄がここに描出されている。
むしろわれわれは、市松という役者を、これ以上に描くことができないぎりぎりの描写を写楽に見るのである。
派手な色彩の衣裳は、白人(私娼)という稼業であるからであり、さぞ舞台の上の市松は芸の力で艶麗であったろうと想像される。

市松については、第二回配画の解説で記してあるが、天明四年に三世市松となり、寛政十年には男役に転じて市川荒五郎となった。
そして、文化十一年閏十一月、五十五歳で没した。
当時は女形の「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位にあって、中堅の人気役者であった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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17:二世坂東三津五郎の石井源蔵

2012年09月02日 | 東洲斎写楽撰 全40点
17:二世坂東三津五郎の石井源蔵

この絵は、寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作である。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが、この川島治部五郎であるが、この場に現れる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵も写楽にあって、これは二枚続きとなる絵であるが、この鬼次の一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作の一つである。背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(濃緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現し、頬被りの手拭の白が、いかにも不気味である。右手をあげて兵太郎から顔をかくし、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い彎曲。また衣紋をあらわす描線の力強さ。赤い目隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せている。

二世大谷鬼次は、三世大谷広次の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次をついで、写楽はこの襲名のときの狂言も描いているが、同八年十一月に三十六歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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16:二世大谷鬼次の川島治部五郎

2012年08月26日 | 東洲斎写楽撰 全40点
16:二世大谷鬼次の川島治部五郎

この絵は、寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作である。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが、この川島治部五郎であるが、この場に現れる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵も写楽にあって、これは二枚続きとなる絵であるが、この鬼次の一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作の一つである。背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(濃緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現し、頬被りの手拭の白が、いかにも不気味である。右手をあげて兵太郎から顔をかくし、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い彎曲。また衣紋をあらわす描線の力強さ。赤い目隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せている。

二世大谷鬼次は、三世大谷広次の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次をついで、写楽はこの襲名のときの狂言も描いているが、同八年十一月に三十六歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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15:市川鰕蔵の竹村定之進

2012年08月19日 | 東洲斎写楽撰 全40点
15:市川鰕蔵の竹村定之進

この絵は写楽の代表的傑作である。寛政六年五月の河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場する役で、この役は乳人重の井の父であるが、重の井と伊達の与作との不義のため主君から暇を賜り、お能師であった彼はそのお別れに「道成寺」の鐘入の奥義を伝授することになり、妻桜木に舞わせ、自分は鐘の中で切腹して死ぬ役である。つまりこの芝居の発端となるべき場面に登場する。しかしこの役は、つねに大立者が演じ、この切腹の場はいつも評判になった場面である(現在はこの場は上演されることがなく、後の「重の井の子別れの場」の方が上演されている)。

ここに描かれた蝦蔵の顔は、いかにも印象的であるが、奇怪とみる人もある。しかし奇怪とみる人は写楽の真の芸術を理解しない人といっていい。吊上がった眉の下の眼は生きている。引きゆがめられた口もとからは今にも声がもれそうである。顔面の屈線はえぐったように鋭く、物すさまじいまでに、当時役者の王者であった蝦蔵の偉大な芸格、風貌が精一杯にとらえられている。まことに写楽の芸術の大きさ、高さを感ぜしめる。被写物の真をとらえないではいられない写楽の芸術の究極の意欲がここに結晶された思いがする。

市川蝦蔵は、五代目市川団十郎が、寛政三年に改名した名である。四代目団十郎の実子で、三世松本幸四郎から明和七年十一月に五世を襲った。ある評判記に「この上はよき薬を以て、もちっと太りを付けたいもの」とあるが、その評語にあてはまる風貌を写楽は如実に描ききっている。天明、寛政時代の江戸歌舞伎界の大御所であり、その芸風は、大場にして、唯一筋に狂言の道を立てることを主としたという。文章にも長じ、反古庵といって俳句を、花道のつらねと称して狂歌を能くした。寛政八年には向島に隠退して成田屋七左衛門と改名したが、その後四回、求められて舞台に立った。そして文化三年十月、六十六歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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14:嵐竜蔵の奴浮世又平 三世大谷広次の土佐又平

2012年08月12日 | 東洲斎写楽撰 全40点
14:嵐竜蔵の奴浮世又平 三世大谷広次の土佐又平

この絵は寛政六年七月都座上演の「けいせい三本傘」に登場する竜蔵と広次を描いた作である。この狂言には、善人の名古屋山三と悪人の不破伴左衛門があるが、その名古屋山三の下僕が広次の土佐の又平で、不破伴左衛門の下僕が浮世又平である。したがってこの二人の奴はやはり善悪の二人で、その役柄が対照的に表現されている。すなわち顔の肥痩、身体の肥痩、腕組みの前と後、着物の色の濃淡、襟の地味と派手、顔の内で眉の上下、口の開閉などである。写楽は全身図で、舞台上の役者を下から仰ぎ見る描写を用いて構図美を示しているが、この絵は最もよい例である。また二人を大きな三角形、一人一人を小さな三角形と、三つの大小の三角形の組み合わせで画面の安定した機構美を示している。見る人々は、これらの複雑な絵画構成に圧倒されるのである。その点この絵は第二期作中の傑作の一つである。色彩の派手さと美しさは第一期作品の黒雲母に対し、第二期の白雲母では意識的に行われていて、これがこの期の特徴となっている。

三世大谷広次は、二世広次の門人で、宝暦十二年に鬼次から広次をついだ。評判記に「いやみなき仕打」、「口跡よく愛嬌あり」、「男ぶりよく大柄にて調子よく通り」などと評されている。享和二年五月、五十七歳で没している。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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12:四世岩井半四郎の乳人重の井

2012年07月29日 | 東洲斎写楽撰 全40点
12:四世岩井半四郎の乳人重の井

この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の女主人公乳人重の井を描いた作である。重の井は恋人伊達の与作との恋愛が知れ、与作はおいとま、父の竹村定之進は切腹、与作との間にできた一子与之助し自然生の三吉といって馬士になった。主君の姫が浜松の入間家に養女に行くのにしたがって重の井は東へ下ったが、その途中、馬士自然生の三吉と出逢うが、乳人という役目の手前、母子の名乗りもできずに分かれる。その場の重の井を描いたのがこの絵である。

この絵は四世岩井半四郎という、当時三世瀬川菊之丞とともに女形の双璧と謳われた名優を描いて、写楽の半身像の女形の絵の最傑作といっていい。それは女形半四郎をあますところなく描き切っているからである。乳人という重の井の役柄がもつ暖かい人情がこの絵にはみなぎっている。また白地に薄紅の蝶扇の模様の着物、紅裏に鶯色の裲襠(うちかけ)の配合は清楚ではあるが、乳人という落ち着きがあり、守り袋を右手にもった姿も悠揚として、大名の奥につとめる女性の気品が見られる。

当時の役者評判記に「誠に花実兼備の若女形」とある標語はこの絵にぴったりである。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

11:嵐竜蔵の金貸石部金吉

2012年07月22日 | 東洲斎写楽撰 全40点
11:嵐竜蔵の金貸石部金吉

この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する役で、敵討をする石井兄弟に助力する田辺文蔵の貧家に借金のとりたてにくる強欲な金貸しの役であるが、その因業さがその顔面によく描写されている。真一文字に結ばれた口、アゴの皺、そして両目のにらみと、袖をまくりあげた左手の構え、まさに迫力のある描写といえる。顔面、姿態のこの迫真の描写によって、画面の大部分を占めている黄八丈の着物の単調さが、むしろ効果を与えていると思われる。しかも、襦袢の黒襟が、強く画面を引きしめている。写楽の描写力と役柄の把握力が端的にみられる作品といえる。

嵐竜蔵は、実悪方として、当時は「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位を与えられていた役者で、写楽はその特異な渋い風貌を好んだらしく、他にもこの役者を描いている。この竜蔵は寛政十年に三代目嵐七五郎を襲名しているが、その年の十一月に三十八歳で没したから、顔とちがって年齢的には若く、竜蔵このとき三十四歳であった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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10:三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半

2012年07月15日 | 東洲斎写楽撰 全40点
10:三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半

この絵は、寛政六年七月河原崎座上演二番目狂言の「桂川月思出」のお半長右衛門道行の場を描いた作である。写楽は第二期作品中、大判全身二人立の作を七枚描いているが、これはその内の一図である。七枚中では最もおだやかな絵である。というのも、お半長右衛門の道行という常盤津を伴奏としての振事で、その色気のある雰囲気を写楽は描き出そうとしたためであろう。道行の場合、女役の方に口説きがあって、振りが多く、男役の方はもたれ役といってて振りは少ない。この絵でも長右衛門の方はじっと立っている姿、お半の方は振事の一瞬きまった姿である。したがってこの絵では、半四郎のお半の姿が焦点であり、あどけないお半の姿態の表現をする半四郎が、実に巧みに描かれている。この絵を見ていると、伴奏の常盤津の旋律が流れてくるように思われるほど、舞台の情趣が感じられ描き出している点、まことに非凡な表現力といえよう。

四代目岩井半四郎は、四世市川団十郎の門に入り、のち岩井家の養子となって四世となった。この人は丸顔であったので俗にお多福半四郎と呼ばれたが、その面影は写楽によって的確に描破されている。音調はいくらか吃る癖があったという。芸風ははなやかで愛嬌があり、写実的であった。世人は彼を「目黒(そこに別荘があった)の太夫」または「白金の太夫」とも呼び、天明、寛政時代の女形の一流であった。寛政十二年三月、五十四歳で没した。
三世坂東彦三郎は、八世市村羽左衛門の末っ子で、尾上菊五郎の養子である。和事実事に長じ、所作事も堪能で、その人格も高く「常に野卑なる事を好まず、画をなし茶事を好み」といわれている。その芸格、人格を写楽はやはり完全にとらえている。文化、文政時代に名優といわれた。文政十一年二月、七十五歳で没した。このとき彦三郎は四十一歳であった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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