日本男道記

ある日本男子の生き様

24:二世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛 中山富三郎の梅川

2012年10月21日 | 東洲斎写楽撰 全40点
24:二世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛 中山富三郎の梅川

この絵は、写楽第二期の作品であり、第二期作品中全身二人立図七枚の内、これだけが白雲母背色でなく、黒雲母摺作品である。寛政六年八月の桐座の二番目狂言、梅川忠兵衛の芝居「四方錦故郷旅路」の大詰道行浄瑠璃の「月眉恋最中」の場を描いた作である。この図は実に歌舞伎味が豊かに表現されている絵で、歌舞伎の色彩、型、音楽、そして技芸、そうしたもののすべての情緒的な美しさがこの絵に盛られている。「二十日あまりに五十両つかい果して二分残る」の死出の道行きである。せめて一目親に逢ってと、忠兵衛の親里新口村へ落ちていく二人の心根は、舞台上の詩情であり、またこの絵に漲る詩情でもある。対の小袖、相合傘の二人連れは、歌舞伎の基調色である背色の黒雲母から浮かび上がって、画面はひろい舞台面となって、われわれを陶酔の境へと導いていく。まことに舞台美再現している役者絵の極致とも言うべきである。音楽的な描線の暢達(ちょうたつ)、衣裳と顔面、手足との配色美、もちろんこれらが適切にこの絵を美しいものにしている。

三世市川高麗蔵については、「三世市川高麗蔵の志賀大七」の解説に記してあるが、中山富三郎は、寛政から文政にかけてのすぐれた女形で、上方から下って四世松本幸四郎の門弟となり、女の情のこまやかさを表現すること無類といわれ、「ぐにゃ富」のあだ名があった。文政六年九月、六十歳で没した。なおこの人は、三世高麗蔵の妹婿である。
東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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