22:二世瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木
大岸蔵人の妻のやどり木で、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」登場する。この絵は「三世佐野川市松の白人おなよ」の解説で記したことと同様のことのいえる作品である。着物は朱赤であり、うちかけは黒地に紅白の菊の散らし模様で、いかにも派手である。これに比べて富三郎の顔は長く、眼は小さく、顎の骨は四角く張っていて、決して美しいとはいえない。この顔と着衣とは釣り合ってはいない。しかし、それでいてこの絵に全体としての均衡がこわれている感じは全くない。試みに、「三世宗十郎の大岸蔵人」とは夫婦役であるから、これを並べて置いて見るといい。宗十郎の端正さに対し、富三郎の奥方としての風格は決して不均衡ではない。つまり富三郎の顔面が、男のような固さがあって美しくなくっても、写楽は女形としての富三郎の舞台上の生きた姿を描いているから、そこになんの不均衡もなく、この絵一枚だけ見たとしても、顔と着衣の不均衡など感じられないのである。写楽は女形は美しく描くべきであるとは考えていない。舞台の上の役者、その芸、芸質ほとらえることが意図であった。
二世瀬川富三郎は、三世瀬川菊之丞の弟子で、天明四年に富三郎を襲名した。一生師の菊之丞の芸を真似たといわれるが芸達者であった。芸風から「にく富」「いや富」と綽名された。文化元年三月に没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大岸蔵人の妻のやどり木で、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」登場する。この絵は「三世佐野川市松の白人おなよ」の解説で記したことと同様のことのいえる作品である。着物は朱赤であり、うちかけは黒地に紅白の菊の散らし模様で、いかにも派手である。これに比べて富三郎の顔は長く、眼は小さく、顎の骨は四角く張っていて、決して美しいとはいえない。この顔と着衣とは釣り合ってはいない。しかし、それでいてこの絵に全体としての均衡がこわれている感じは全くない。試みに、「三世宗十郎の大岸蔵人」とは夫婦役であるから、これを並べて置いて見るといい。宗十郎の端正さに対し、富三郎の奥方としての風格は決して不均衡ではない。つまり富三郎の顔面が、男のような固さがあって美しくなくっても、写楽は女形としての富三郎の舞台上の生きた姿を描いているから、そこになんの不均衡もなく、この絵一枚だけ見たとしても、顔と着衣の不均衡など感じられないのである。写楽は女形は美しく描くべきであるとは考えていない。舞台の上の役者、その芸、芸質ほとらえることが意図であった。
二世瀬川富三郎は、三世瀬川菊之丞の弟子で、天明四年に富三郎を襲名した。一生師の菊之丞の芸を真似たといわれるが芸達者であった。芸風から「にく富」「いや富」と綽名された。文化元年三月に没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
特徴ある画風の写楽。
今回の説明でなおのこと
その背後にある意図とい
うものを感じさせられました。
この辺の意図は当時の人
たちこそ敏感に感じていた
でしょうねぇ。
ご指摘のとおり
>写楽は女形は美しく描くべきであるとは考えていない。舞台の上の役者、その芸、芸質ほとらえることが意図であった。
素敵ですね。