日本男道記

ある日本男子の生き様

18:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ

2012年09月09日 | 東洲斎写楽撰 全40点
18:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ

この絵も寛政六年五月都座上演の「花勝負文禄曽我」の登場人物である。
これは第二回配画の半身二人立図に市川富右衛門の蟹阪藤馬とともに描かれている市松と同じである。
この絵は、写楽の絵を漫画とし、醜しとする人にとっての好例であるかもしれない。
狐のような大きな顔、全く男のような目鼻立ち、それに対して派手な衣裳であり、島田髷にかんざし、身体の矮小なところは、いかにも奇態である。
しかし、ここに写楽の芸術の実態を認めなければならない。
それは、市松は女形であるということである。
実際に女であれば、これは奇態であろう。
しかし男である女形が女に扮した、その現実をこれほど描きえた作品は、多くの役者絵中に見ないところである。
写楽以前の、また写楽以後の女形を描いた役者絵は、いずれも女形の顔をあたかも女性であるが如く美化して描いている。
しかし、実際において舞台の上の女形の顔はどうであろうか。
それは今日テレビの舞台中継の大写しのとき、誰でもが感ずるところであろう。それでいながら舞台上の女形は実際の女以上に女らしい。
それは芸の力である。
この事実を考えれば、この狐のような顔に迫真の描写力に驚嘆するのである。
つまり男が女に扮するという、世界に類のない女形というものの真髄がここに描出されている。
むしろわれわれは、市松という役者を、これ以上に描くことができないぎりぎりの描写を写楽に見るのである。
派手な色彩の衣裳は、白人(私娼)という稼業であるからであり、さぞ舞台の上の市松は芸の力で艶麗であったろうと想像される。

市松については、第二回配画の解説で記してあるが、天明四年に三世市松となり、寛政十年には男役に転じて市川荒五郎となった。
そして、文化十一年閏十一月、五十五歳で没した。
当時は女形の「上上白吉」(上上吉に届かないため吉の字を白抜きにしたもの)の位にあって、中堅の人気役者であった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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