23:三世市川八百蔵の田辺文蔵
この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する、石井兄弟の内、源蔵が返り討ちにあう場で水右衛門に太股を斬られて足なえとなり、貧にせまり、妻おしづは病み、自分は躄車(いざりぐるま)にのるというような悲運の人である。その寂しさが、そのやつれが、胸もとで組み合わされたいじけたような両腕にも、両肩の落ちた、そして猪首につき出された首筋の弱々しさにも、のびた月代にも、後ろ毛にも、うつろのような眼にも十分に把握されている。また、衣裳は「肩入れ」といって、零落した男女に用いるもので、肩、袖口に別なきれをはぎ合わせた着物で、この文蔵の貧しさが示されている。色といえば、黒とベニガラ色の二色で、僅かに袖口に緑色がのぞいているにすぎない。これほど役柄とその雰囲気が描破されている絵も少ないといえよう。
三世市川八百蔵は、三世沢村宗十郎の実兄で、最初は女形で二世菊之丞の門弟で瀬川雄次郎といったが、安永六年立役となり、文化六年には助高屋高助と改めた。文化元年、七十一歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この絵は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する、石井兄弟の内、源蔵が返り討ちにあう場で水右衛門に太股を斬られて足なえとなり、貧にせまり、妻おしづは病み、自分は躄車(いざりぐるま)にのるというような悲運の人である。その寂しさが、そのやつれが、胸もとで組み合わされたいじけたような両腕にも、両肩の落ちた、そして猪首につき出された首筋の弱々しさにも、のびた月代にも、後ろ毛にも、うつろのような眼にも十分に把握されている。また、衣裳は「肩入れ」といって、零落した男女に用いるもので、肩、袖口に別なきれをはぎ合わせた着物で、この文蔵の貧しさが示されている。色といえば、黒とベニガラ色の二色で、僅かに袖口に緑色がのぞいているにすぎない。これほど役柄とその雰囲気が描破されている絵も少ないといえよう。
三世市川八百蔵は、三世沢村宗十郎の実兄で、最初は女形で二世菊之丞の門弟で瀬川雄次郎といったが、安永六年立役となり、文化六年には助高屋高助と改めた。文化元年、七十一歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「花菖蒲文禄曽我」
今、あらすじを読んでまいりました。。。
ご説明により、表情や仕草のディティールが
ありのまま描かれていることに気が付きました。。。
この雰囲気、どうも見たことがあると思いましたら、
ちょっと前、切手(80円)を購入しておりました感じです。
いつも、ありがとうございます~♪
切手ですか。
切手といえば、ある日昔横浜で職場が同じだった方から、綺麗に整理され解説付きの沢山の切手が送られてきました。
その後、娘さんからお手紙でその方が亡くなり、この切手を受け取って欲しいとの手紙が。
今でも私の書斎にその切手帳はあります。
その方のお気持ちを考えると・・・・・。