日本男道記

ある日本男子の生き様

9:市川男女蔵の奴一平

2012年07月08日 | 東洲斎写楽撰 全40点
9:市川男女蔵の奴一平

寛政六年五月河原崎座上演の「恋乳房染分手綱」による奴一平の役で、伊達の与作に味方をする役柄である。この絵は俗に「赤襦袢」と呼ばれている。この赤襦袢がこの絵を派手にしているし、歌舞伎の立回りの一瞬の兄得がまた派手にきまった形となっている。この絵では、男女蔵の表情を見るべきである。つまり立回りの場面の真剣な表情である。相手を見すえて、一刀を斬りつけようとする瞬間の緊張が顔面にあらわれている。それと同時に寛政元年に元服したという男女蔵の若さが、口もとにも、顔の輪郭にも、鼻の下からアゴにかけての線にも、はっきりととらえられている表現力にも驚かされる。そしてさらに、写楽はこの若い男女蔵を愛情をもって描いているように思われる。そこに絵全体に清新な、ほのぼのとしたものが感じられる所以がある。
市川男女蔵は、五世市川団十郎の門人で、若くして名声を得、文化文政時代の名優とうたわれ、文政六年には実悪(じつあく)の「功上々吉」にまでなった。天保四年六月、五十三歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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8:中島和田右衛門のぼうだら長左衛門 中村此蔵の船宿かな川やの権

2012年07月01日 | 東洲斎写楽撰 全40点

8:中島和田右衛門のぼうだら長左衛門 中村此蔵の船宿かな川やの権
この絵は写楽の第一期、二人立半身像を描いた五枚の内の最傑作である。狂言は寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」である。他の半身二人立の絵がそうであるように、これも二人の人物の対比の妙をみせている。和田右衛門の痩せた顔に対して此蔵の肥り肉、和田右衛門の下がり眉に此蔵の上がり眉、和田右衛門の丸い眼に此蔵の細い眼、和田右衛門の鷲っ鼻に此蔵の獅子っ鼻、和田右衛門の開いた口に此蔵の結んだ口、実に面白い対照でありその対照の巧みさによってこの絵はいきいきとして、向き合った二人の顔がガッチリと組み合って一分のすきもない。色彩にも対照的なものを見せ、和田右衛門の濃い色彩に対して此蔵は白地の浴衣である。写楽は、むしろこの絵を描くことに自信と興味を感じ、よろこび感じながら筆をとったのではないかとさえ思われる。

この二人の役者は、ともに当時第三流に属する下級役者である。役もごく端役である。にもかかわらず、写楽はこの二人を取り上げている。下級役者を錦絵にするようなことは他の絵師ではないことである。ここに写楽の芸術家として他におかされない自信があった。したがってこの絵は写楽の代表作といえるのである。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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7:三世沢村宗十郎の大岸蔵人

2012年06月24日 | 東洲斎写楽撰 全40点

7:三世沢村宗十郎の大岸蔵人
この役は、寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に登場する義人の役柄である。この絵は一見平凡である。しかしこの絵は佳作の一つである。その理由は、写楽がただ役者の姿を写すというのではなく、その役者の芸質、芸格、人間としての性格、そしてその役の性根までを描いたことに写楽の芸術の特色があり、それは他の絵師のなし得なかったところであった。その写楽の芸術の本質が、この一枚の絵に発揮されている。それにこの絵が佳作となった所以があるのである。ただ見ただけでは、開いた扇をもっている侍の半身像である。色彩も実に単純で、着物の濃紫と扇の金、そして背色の黒雲母だけといった僅か三色が主なる色彩である。それでいて、ここに浮かび上がっている宗十郎の顔は、「人品男振よく」と評された宗十郎の風貌をそのままに表現されている。また向かって左の眉の下から顎へかけての顔面の輪郭の曲線の緊張味と、量感のある顔面のもりあがりには驚くべきものがある。宗十郎を評した言葉に、「温和の内に底に烈しきところあり」とあるが、つぶらな瞳、ひきしまった口元に、その標語のあやまりでない役者宗十郎の描写を見ることができる。その悠揚として一見平凡な肖像に活を与えているのが、胸元にひろげられた、大きな金扇で、ここにも写楽の色彩感の鋭さが見える。三世沢村宗十郎は、二世宗十郎の次男で、写楽も描いている三世市川八百蔵の弟である。当時立役の随一といわれた名優で享和元年三月、四十九歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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6:八世森田勘弥の駕舁鶯の治郎作

2012年06月03日 | 東洲斎写楽撰 全40点

6:八世森田勘弥の駕舁鶯の治郎作
寛政六年五月の桐座の「敵討乗合話」の内に上演された所作事「花菖蒲思笄」に登場する役である。
この絵で舞踊でよく見られる思いきった身体の動きからキマった時の姿があざやかに描かれている。所作事であるから衣裳も派手で、描線もなめらかである。
この派手な衣裳が画面の大部分を占めているのも所作事図としての効果を出している。
勘弥の顔が比較的小さく描かれているのも写楽の非凡な技巧といえよう。
その上背色の黒雲母がまた有効に画面に調和を与えている。
着物の藍地に貝絞りの柄、袖なしは鼠で模様があばれ熨斗(のし)の白抜き、そして頭巾は黄。
この配色も他の写楽の絵としては珍しく複雑であるが、さらに襟元と袖口に見える下着の紅が、これらと交錯して、しかも一分のすきもない。
つまりこれ以上の色も、これ以下の色も考えられないということである。
さらに勘弥のえぐられたような頬の線と眼と口許が印象的で迫るものが感じられるのは、まさに写楽の絵の特徴である

森田勘弥は、江戸三座、中村、市村、森田の森田座の座元として伝統の家柄である。
この勘弥は八代目で、宝暦九年に生まれ、五代目勘弥の息子である。
宝暦十二年から舞台に立ち、所作事に長じていて名をあげた。
勘弥の名は天明三年に坂東又三郎から八代目となった。座元と役者を兼ねた。森田座は寛政元年に子の又吉に座元を譲って坂東八十助と改め、文化十一年二月に没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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5:四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛

2012年05月27日 | 東洲斎写楽撰 全40点

5:四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛
寛政六年五月桐座の「敵討乗合話」へ登場した肴屋吾郎兵衛である。
この役は松下造酒之進の娘、高城野、しのぶの姉妹に助刀をして、親の敵志賀大七を討たせる義侠の魚屋である。
この絵では、黒い幅広いどてらの襟が色彩の基調となっている。
その外には袖口の草、煙管の黄と紅がほんの小さい部分に配され、大部分は黒襟に対してどてらの濃紫色の地味な色である。
背色の黒雲母とともに暗い色の間に小さな明るい色の点綴が効果をみせていてその色彩感は写楽独特のものである。
なおどてらの格子縞を好んで用いていた。

四世松本幸四郎は、天明から寛政時代へかけての名優で、容姿と風采と音声と弁舌にすぐれ、常に寡黙であるが、口を開けば皮肉であり、人々を笑わすといわれた性格であった。
また生涯をほとんど顔を白塗りの訳ばかり演じたといわれる芸質であったが、この性格、芸質を写楽は十分とらえている。
左の袖口へ入れた左手の線や左の肩から煙管をもつ手への線のやわらかさ、眼に紅の隈を入れた派手さなどの表現がそれである。

四世幸四郎は、女形瀬川菊之丞の門から四世団十郎の門に移り、染五郎、高麗屋の名をへて幸四郎となった。
享和二年六月、六十六歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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4:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富衛門の蟹坂藤馬

2012年05月20日 | 東洲斎写楽撰 全40点

4:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富衛門の蟹坂藤馬
写楽は、第一期作品中で半身二人立の絵を五図描いているが、これはその内の一図で、やはり「花菖蒲文禄曽我」の狂言に登場する二人である。

写楽はこれら二人立半身図の上で、つねにいくつかの対照をとらえている。
この絵にあっては、佐野川市松の痩せた顔と市川富右衛門のふとった顔、市松の上がり眉と富右衛門の下がり眉、市松のおさ形の眼と富右衛門の丸い眼、といったようにそれぞれの対照によって絵に変化を与え趣きをみせている。
この絵は無雑作に二つの肖像を寄せ集めたような感じであるが、前述のいくつかの対比の妙によって巧みに連絡をみせている。
市松の白人おなよを一人立で描いた絵は別にあるが、この絵ではむしろ富右衛門の描写を見るべきである。
この蟹坂藤馬という役は、悪人たちの方の人物であるが、たいした役でなく、富右衛門も上級の貧乏らしさ、これが市松の白人(私娼のこと)おなよの派手さと、これも画面の上の対照としての面白さをみせている。

三世佐野川市松は、当時若女形として上位にあった。
初代は石畳模様(俗に元禄模様という)の衣裳を用いて流行になり、市松模様の名を起こした役者である。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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3:大谷徳次の奴袖助

2012年05月13日 | 東洲斎写楽撰 全40点

3:大谷徳次の奴袖助
寛政六年五月都座の「花菖蒲文禄曽我」に出る仇討ちをする方の奴の袖助を描いた作で、大谷徳次は当時の道化役の一人者であった。
その滑稽味が、下がった眉、つぶらな眼に、よく現れている。
写楽が役者、役柄を表現した佳作の一つである。
この絵で、写楽は人物を思いきって左へよせ、右側をひろく空間にするという構図法をとって成功している。
つまり落款さえも右下に入れて、顔の前面に余裕をもたせることで、徳次の動く美しさがあり、また顔面描写がさらに生きている。
また、この写楽は、彼の独特な構図法よく用いるのであるが、三つの類似型のつみ重ねをみせている。
すなわち顔の輪郭と、右手のコブシの形の大小二つの類似型、これによって左側を固め、これに対して刀の鍔下を握っている左手の同型の類似型を描くことで、絵の均衡と安定がはかられている。

色彩は、渋い着物の色を大部分とし、あとは僅かな部分の濃い黄と朱だけで、その中で刀の鞘の朱の色が全体のきき色となっている。
少ない描線、少ない色彩で絵の効果を考えるのは、写楽の絵の特色であるが、その特徴を最もよく知ることのできる作品といえる。


東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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2:三世瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづ

2012年05月06日 | 東洲斎写楽撰 全40点

2:三世瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづ
この絵は寛政六年五月、都座の「花菖蒲文禄曽我」に出場する三世瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづの役であるが、田辺文蔵は石井兄弟の仇討ちを助け暮らしの困窮にたえる役であるが、その妻おしづも夫とともに苦難に沈む役で、病身であるために鉢巻をしている。
この絵は写楽の女形を描いた図のうちでは一、二を争う名作といえる。
それは役柄の寂しさの出ていることもさりながら、三世菊之丞の女形としての芸質をあますところなく描いているからである。
ふっくらとした顔面、悠揚とした芸質がにじみ出ている姿態描写はただただ感銘の深さを感ずる。
ことにこの絵で驚くべき配色美をみせている。
それは写楽が最も好む色彩と思われる、紅と草の二色の下着である。
それは僅かな部分でありながら全体の色彩を引き締めて、しかも女形としての派手さもうかがわせている技巧を示している。
まことに写楽の独特な感覚の豊かさを見せた作品である。

三世瀬川菊之丞は、天明、寛政時代の名女形で、座頭にもなった。二世菊之丞の養子で、大阪の振付師市山七十郎の二男として生まれた。初名は市山富三郎、二世の養子となってから瀬川富三郎と改め、安永三年十一月に三代目をついだ。年ごとに名声を上げ、江戸随一の女形となった。浜村屋大名神さまともいわれた。享和元年に俳名の路考を芸名とし、文化四年に仙女と改名、文化七年十二月、六十歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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1:松本米三郎の仲居おつゆ

2012年04月29日 | 東洲斎写楽撰 全40点

1:松本米三郎の仲居おつゆ
寛政六年八月、桐座上演の切狂言の「四方錦故郷旅路」に登場する仲居おつゆの役である。
芝居は近松物の心中狂言としてよく知られた桜川忠兵衛の狂言で、この役は、新町井筒屋、忠兵衛の封印切りの場に出る役である。
この絵は第二期の細判作品中、一二を争う佳品である。
いくつかの三角形の集積によって人物の構図を作り上げて写楽独特の立体美を見せている。
しかも、描線はなんの誇張もなくごく自然な立体像を描き出して、写楽の奥行きのある、厚味のある芸術が示されている。

色彩はベニガラ色の着物と黒襟と黒い帯が背色の黄摺りとよく調和して重厚味が発揮されている。襦袢の襟の前垂れの薄藍がまたいい配色の妙を見せている。

松本米三郎は、女形の四世芳沢あやめの子として生まれ、のち四世松本幸四郎の門に移り、松本米三郎となった。若女形としての人気が高く、中山富三郎、岩井粂三郎と三幅対といわれた。文化二年三月に没した。写楽は第一期の大判半身画でも米三郎を描いている。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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