14:嵐竜蔵の奴浮世又平 三世大谷広次の土佐又平
この絵は寛政六年七月都座上演の「けいせい三本傘」に登場する竜蔵と広次を描いた作である。この狂言には、善人の名古屋山三と悪人の不破伴左衛門があるが、その名古屋山三の下僕が広次の土佐の又平で、不破伴左衛門の下僕が浮世又平である。したがってこの二人の奴はやはり善悪の二人で、その役柄が対照的に表現されている。すなわち顔の肥痩、身体の肥痩、腕組みの前と後、着物の色の濃淡、襟の地味と派手、顔の内で眉の上下、口の開閉などである。写楽は全身図で、舞台上の役者を下から仰ぎ見る描写を用いて構図美を示しているが、この絵は最もよい例である。また二人を大きな三角形、一人一人を小さな三角形と、三つの大小の三角形の組み合わせで画面の安定した機構美を示している。見る人々は、これらの複雑な絵画構成に圧倒されるのである。その点この絵は第二期作中の傑作の一つである。色彩の派手さと美しさは第一期作品の黒雲母に対し、第二期の白雲母では意識的に行われていて、これがこの期の特徴となっている。
三世大谷広次は、二世広次の門人で、宝暦十二年に鬼次から広次をついだ。評判記に「いやみなき仕打」、「口跡よく愛嬌あり」、「男ぶりよく大柄にて調子よく通り」などと評されている。享和二年五月、五十七歳で没している。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この絵は寛政六年七月都座上演の「けいせい三本傘」に登場する竜蔵と広次を描いた作である。この狂言には、善人の名古屋山三と悪人の不破伴左衛門があるが、その名古屋山三の下僕が広次の土佐の又平で、不破伴左衛門の下僕が浮世又平である。したがってこの二人の奴はやはり善悪の二人で、その役柄が対照的に表現されている。すなわち顔の肥痩、身体の肥痩、腕組みの前と後、着物の色の濃淡、襟の地味と派手、顔の内で眉の上下、口の開閉などである。写楽は全身図で、舞台上の役者を下から仰ぎ見る描写を用いて構図美を示しているが、この絵は最もよい例である。また二人を大きな三角形、一人一人を小さな三角形と、三つの大小の三角形の組み合わせで画面の安定した機構美を示している。見る人々は、これらの複雑な絵画構成に圧倒されるのである。その点この絵は第二期作中の傑作の一つである。色彩の派手さと美しさは第一期作品の黒雲母に対し、第二期の白雲母では意識的に行われていて、これがこの期の特徴となっている。
三世大谷広次は、二世広次の門人で、宝暦十二年に鬼次から広次をついだ。評判記に「いやみなき仕打」、「口跡よく愛嬌あり」、「男ぶりよく大柄にて調子よく通り」などと評されている。享和二年五月、五十七歳で没している。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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