日本男道記

ある日本男子の生き様

10:三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半

2012年07月15日 | 東洲斎写楽撰 全40点
10:三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半

この絵は、寛政六年七月河原崎座上演二番目狂言の「桂川月思出」のお半長右衛門道行の場を描いた作である。写楽は第二期作品中、大判全身二人立の作を七枚描いているが、これはその内の一図である。七枚中では最もおだやかな絵である。というのも、お半長右衛門の道行という常盤津を伴奏としての振事で、その色気のある雰囲気を写楽は描き出そうとしたためであろう。道行の場合、女役の方に口説きがあって、振りが多く、男役の方はもたれ役といってて振りは少ない。この絵でも長右衛門の方はじっと立っている姿、お半の方は振事の一瞬きまった姿である。したがってこの絵では、半四郎のお半の姿が焦点であり、あどけないお半の姿態の表現をする半四郎が、実に巧みに描かれている。この絵を見ていると、伴奏の常盤津の旋律が流れてくるように思われるほど、舞台の情趣が感じられ描き出している点、まことに非凡な表現力といえよう。

四代目岩井半四郎は、四世市川団十郎の門に入り、のち岩井家の養子となって四世となった。この人は丸顔であったので俗にお多福半四郎と呼ばれたが、その面影は写楽によって的確に描破されている。音調はいくらか吃る癖があったという。芸風ははなやかで愛嬌があり、写実的であった。世人は彼を「目黒(そこに別荘があった)の太夫」または「白金の太夫」とも呼び、天明、寛政時代の女形の一流であった。寛政十二年三月、五十四歳で没した。
三世坂東彦三郎は、八世市村羽左衛門の末っ子で、尾上菊五郎の養子である。和事実事に長じ、所作事も堪能で、その人格も高く「常に野卑なる事を好まず、画をなし茶事を好み」といわれている。その芸格、人格を写楽はやはり完全にとらえている。文化、文政時代に名優といわれた。文政十一年二月、七十五歳で没した。このとき彦三郎は四十一歳であった。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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2 コメント

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こんな絵もあったのかぁ (地理佐渡..)
2012-07-15 08:09:32
おはようございます。

写楽は役者絵。特に大首絵と呼ばれるものの
印象が強いので、このようなものもあったの
かと認識が改まりました。

これはこれで良い絵です。

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Re:こんな絵もあったのかぁ (日本男道記)
2012-07-15 10:12:19
おはようございます。

私も同じような感想を持っています。

さて、今朝はだんだん日差しが強くなり、部屋にいても汗が流れ出る状況です。

梅雨明け近しでしょうか?だといいのですが。
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