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日本男道記

ある日本男子の生き様

京 3

2025年06月10日 | 土佐日記

【原文】 
さて、池めいて窪まり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千歳や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。今生ひたるぞまじれる。おほかたの、みな荒れにたれば、「あはれ」とぞ、人々いふ。
思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪えずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、
生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
とぞいへる。なほ、飽かずやあらむ、また、かくなむ、
見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや
忘れがたく、口惜しきこと多けれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ。

【現代語訳】
さて、家の中に、地が窪んでそこに池のように水がたまっている所がある。そのほとりには松も生えていたのだったが、たった五年六年のうちに、まるで千年も経ってしまったのだろうか、長生きのはずの松が、おおかた半分方枯れてなくなっている。かと思うと、そこについ最近に生えてきた若松も交じっている。松だけではない。どこもここも荒れ果ててしまっているので、「なんてことだ、ああ!」とそんなことばかり皆が言う。
それにつけて、この邸については、あれこれ思い出すことばかり多くて、その思い出の恋しく思われるなかでも、とりわけて、この家で生まれた女の子が、一緒に帰ってくることができなかった、そのことがどれほど恋しいことか。船に乗ってきた人たちも、みな親子一緒になって、大騒ぎをしている。こうした中で、やはり、悲しみに堪えられなくて、ひそかにこの心をわかり合う人と言い合った歌は、
生(む)まれしも…
(ここで生まれた幼い人も帰らないのに、わが家に、その間に育った小松があるのを見るのは、なんと悲しいことだ)



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

京 2

2025年06月03日 | 土佐日記

【原文】 
また、ある人のいへる、
天雲のはるかなりつる桂川袖をひててもわたりぬるかな
また、ある人、よめり。
桂川わがこころにもかよはねど同じ深さにながるべらなり
京のうれしきあまりに、歌もあまりぞ多かる。
夜更けて来れば、ところどころも見えず、京に入り立ちてうれし。
家に到りて、門に入るに、月明ければ、いとよく有様見ゆ。
聞きしよりもまして、いふかひなくぞ、こぼれ破れたる。
家にあづけたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みてあづかれるなり。さるは、たよりごとに物も絶えず得させたり。今宵、「かかること」と、声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、志はせむとす。

【現代語訳】
また、ある人がいうには、
天雲(あまくも)の…
(空の雲のように遥か遠くのことと思っていた桂川を、今こうして、この袖を濡らして渡ったよなあ)
また、ある人がよむには、
桂川わがこころにも…
(桂川は、俺の心にまで通っているというわけではないが、俺がこの川を懐かしんでいた、その思いと同じ深さで流れているようだよ)
京に着いた。あまりの嬉しさに詠まれた歌も多すぎるほどだった。
夜も更けてから来たので、見たかった数々のところも見えない。(だが、とにかく)京の土を踏んで嬉しい。
家に到着して門に入ると、月が明るいので、たいへんよくあたりの有様が見える。
聞いていたよりもずっと、言いようもなく、壊れてぼろぼろになっている。
(家を預けたつもりで逆に)家に預けた人の心も、すさんでいたのである。
間には中垣こそあっても、あたかも一つ屋敷のようであったので、隣では自ら望んで預かったのである。
それでも、土佐から便りをする度毎に、(お礼のつもりで)物品を絶えずあげたのである。
今夜は、「こんなことってなかろう」と、みんなに、声高に言わせはしない。
とても薄情だとは見えるけれども、お礼はしようと思う。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

京 1

2025年05月27日 | 土佐日記

【原文】 
十六日。今日の夜さつかた京へ上る。
ついでに見れば、山崎の小櫃の絵も、曲りの大路の方も変らざりけり。「売り人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。
かくて京へ行くに、島坂にて、人、饗応したり。かならずしもあるまじきわざなり。発ちて行きし時よりは、来る時ぞ人はとかくありける。これにも返り事す。
夜になして、京には、入らむと思へば、急ぎしもせぬほどに、月出でぬ。桂川、月の明きにぞわたる。人々のいはく、「この川、飛鳥川にあらねば、渕瀬さらに変はらざりけり」といひて、ある人のよめる歌、
ひさかたの月に生ひたる桂川底なる影も変はらざりけり

【現代語訳】
十六日。今日、夕暮れ時、京へ上る。
そのついでに見ると、山崎の町の店頭の小櫃の絵看板も、曲りの大路の付近も変わっていない。もっとも、「商人の心はわからない」などというようである。
このようにして京へ行くのに、島坂というところで、ある人がもてなしをしてくれた。これはなくてもよいはずだ。出立していった時よりも、帰ってきた時のほうが人はいろいろとするものである。これにもお返しをした。
夜になって、京に入ろうと思ったが、急ぎもしないうちに月が出た。
桂川を月の明かりのもとに渡った。人々が言うには、「この川は飛鳥川ではないから、淵も瀬もけっして変わらないことだ」と言って、ある人が詠んだ歌は、
ひさかたの…
(月に生えているという桂、その名を負う桂川は底に映る月の影も変わることが無い)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

渚の院・山崎 5

2025年05月20日 | 土佐日記

【原文】 
十二日。山崎に泊まれり。
十三日。なほ、山崎に。
十四日。雨降る。
今日、車、京へとりにやる。
十五日。今日、車率て来たり。船のむつかしさに、船より人の家に移る。
この人の家、喜べるやうにて、饗応したり。この主の、また、饗応のよきを見るに、うたて思ほゆ。いろいろに返り事す。家の人の出で入り、にくげならず、ゐややかなり。

【現代語訳】
十二日。山崎に泊まる。
十三日。やはり山崎に。
十四日。雨が降る。
今日、車を京都へ取りに行かせる。
十五日。今日、車を曳いてきた。狭い船中の生活の窮屈さに、船からある人の家に移る。
この人の家では、いかにも嬉しそうに、歓迎してくれる。
この家の主人の、そのまた接待ぶりの良いのを見るにつけても、なんとなくいやな気持ちがする。いろいろと返礼をする。(とはいえ)家人の立ち居振る舞いは、上品で礼儀正しい。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

渚の院・山崎 4

2025年05月13日 | 土佐日記

【原文】 
十一日。雨いささかに降りて、やみぬ。
かくてさし上るに、東の方に、山の横ほれるを見て、人に問へば、「八幡の宮」といふ。
これを聞きて、喜びて、人々拝み奉る。
山崎の橋見ゆ。うれしきことかぎりなし。
ここに、相応寺のほとりに、しばし船をとどめて、とかく定むることあり。
この寺の岸ほとりに、柳多くあり。ある人、この柳の影の、川の底に映れるを見て、よめる歌、
さざれ波寄するあやをば青柳の影の糸して織るかとぞ見る

【現代語訳】
十一日。雨が少し降って止んだ。
こうして、棹をさしながら上って行くと、東の方に、山に横穴が掘られているのを見て、そのことを人に聞くと、「八幡の宮」だと言う。
これを聞いて、喜んで、人々は拝み奉る。
山崎の橋が見える。嬉しくて仕方がない。
そこで、相応寺のほとりに、しばらく船を止めて、いろいろと決定することがある。
この寺の岸あたりには柳がたくさんある。
ある人が、柳の影が川底に映っているのを見てよんだ歌は、
さざれ波…る
(水面にさざ波が描き出す緯糸の文様を、青柳の枝葉の影が経糸となって織出しているかのように見えるよ)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

渚の院・山崎 3

2025年05月06日 | 土佐日記

【原文】 
かく、上る人々の中に、京より下りし時に、みな人、子どもなかりき、到れりし国にてぞ、子生める者ども、ありあへる。人みな、船の泊まるところに、子を抱きつつ、降り乗りす。これを見て、昔の子の母、悲しきに堪えずして、
なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ
といひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかがあらむ。かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。
唐土も、ここも、思ふことに堪へぬ時のわざとか。
今宵、鵜殿といふところに泊まる。
十日。さはることありて、上らず。
 
【現代語訳】
このように、川を上って行く人々の中には、京から任国に下った時には、誰もみな子供はいなかったのだが、行った先(土佐の国)で子供を産んだ人たちが、乗り合わせていた。この人たちはみな、船が泊まるところで、子供を抱きながら乗り降りする。
これを見て、亡くなった子の母親が、悲しさに堪えかねて、
なかりしも…
(行くときは子供のなかった人たちも、帰る時には連れて帰るのに、子供を持っていた私は亡くして帰ってくる。その悲しさよ)
といって泣いたのであった。亡き子の父親も、この歌を聞いてどんな思いであろうか。
こうゆう、詩も歌も、ただ好きだからとて作るものでもなかろう。唐土にしても、我が国にしても、(単なる好みなどいうことを超えて)思うことに堪えかねたときに言うことである。
今夜は鵜殿というところに泊まる。
十日。支障があって、上らない。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

渚の院・山崎 2

2025年04月29日 | 土佐日記

【原文】 
ここに、人々のいはく、「これ、昔、名高く聞こえたるところなり」「故惟高親王の御供に、故在原業平の中将の、世の中に絶えて桜の咲かざらば春の心はのどけからましといふ歌よめるところなりけり」。
今、今日ある人、ところに似たる歌よめり。
千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変はらざりけり
また、ある人のよめる、
君恋ひて世を経る宿の梅の花むかしの香にぞなほにほひける
といひつつぞ、みやこの近づくを喜びつつ上る。

【現代語訳】
そこで、人々が言うには、「ここは、昔、名声高かった所である」「故惟高親王の御供、故在原業平中将が、
世の中に絶えて…
(もしもこの世の中に桜の花が咲くということがなかったら、花の咲くの咲かないのと心を惑わすこともなくて、春時の人の心はどんなにかのどかであったろうに)
と歌を詠んだ所なのだ。
今、今日、ここに居る人がこの場所にふさわしい歌を詠んだ。
千代経たる…
(千年も経過した松ではあるが、今もなお、昔のまま身にしみいるように澄んで吹いている松風の響きばかりは、変はらないでいることだ)
また、ある人がよんだ歌は、
君恋ひて…
(親王を恋しく思って幾世代をも経てきたこの宿の梅の花は、当時と同じ香に、匂い立っていることだ)
と詠んで、都が近づいているのを喜びながら上って行く。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

渚の院・山崎 1

2025年04月22日 | 土佐日記

【原文】 
九日。心もとなさに、明けぬから、船をひきつつ上れども、川の水なければゐざりにのみぞゐざる。
このあひだに、わたの泊のあかれのところといふところあり。米、魚など乞へば、行ひつ。
かくて、船引き上るに、渚の院といふところを見つつ行)く。
その院、昔を思ひやりてみれば、おもしろかりけるところなり。
しりへなる岡には、松の木どもあり。
中の庭には、梅の花咲けり。

【現代語訳】
九日。あまりのじれったさに夜が明ける前から船を曳き引き川を上るが、川の水が少ないのでまったく、いざるようにしか進まない。
こうして行くうちに、和田の泊の分かれ(分岐点か?)という所があって、(そこで乞食たちが)米や魚などを物乞いするので、施してやった。
こうして、船を引きながら上って行くと、渚の院というところを見ながら行く。
その院は、昔のことを思いやりつつ見ると、まことに趣のある所である。
後ろの岡には、松の木などが植わっている。
中の庭には、梅の花が咲いている。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

難波 3

2025年04月15日 | 土佐日記

【原文】 
八日。なほ、川上りになづみて、鳥飼の御牧といふほとりに泊まる。
今宵、船君、例の病おこりて、いたく悩む。
ある人、あざらかなる物持て来たり。米して返り事す。男ども、ひそかにいふなり。(『飯粒して、もつ釣る』とや」。
かうやうのこと、ところどころにあり。今日、節忌すれば、魚不用。

【現代語訳】
八日。やはり、川上りが難行していて、鳥飼の御牧のほとりに泊まることになった。今夜、船君は、いつもの病が起こって、たいそう苦しむ。
ある人が、鮮魚を持ってきた。お返しに米を持たせた。男たちが、陰口を言う。「『飯粒でもつを釣る』とか言うような」と。
このような(対等ではない物々交換)ことは、旅の途中、所々であった。今日は、節忌をしたので、魚は不用だったのである。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

難波 2

2025年04月08日 | 土佐日記

【原文】 
七日。今日、川尻に船入りたちて、漕ぎ上るに、川の水干て、悩みわづらふ。船の上ること、いとかたし。
かかるあひだに、船君の病者、もとよりこちごちしき人にて、かうやうのこと、さらに知らざりけり。かかれども、淡路専の歌にめでて、みやこ誇りにもやあらむ、からくして、あやしき歌ひねり出だせり。その来と来ては、川上り路の水を浅み船もわが身もなづむ今日かな
これは病をすればよめるなるべし。一歌にことの飽かねば、いま一つ、
とくと思ふ船悩ますはわがために水の心の浅きなりけり
この歌は、みやこ近くなりぬる喜びに堪へずして、いへるなるべし。「淡路の御の歌に劣れり。ねたき。いはざらましものを」と、悔しがるうちに、夜(になりて寝にけり。

【現代語訳】
七日。今日、河口に船が入り進んで、漕ぎ上がったが、川の水が枯れていて少なく進みづらい。船が遡るのはとても難しい。
そんな時に、病気の船君は、もともと風流など解さない人で、和歌を詠むなどということは、まったく関心がなかったのだが、淡路の婆さんの歌に感心し、都近くになって元気も出てきたのだろう。苦心して妙な歌をひねりだした。その歌は、
来(き)と来(き)ては…
(やっとのことでここまで来るには来たが、川を上る水路の水が浅くて、船も私自身も難渋する今日だよなあ)
この歌は、自分も病にかかったから詠んだのだろう。一首では気持ちがおさまらなかったのだろうか、いま一つ、
とくと思ふ…
(早く早くと思う船をこれほどまでに進みづらくさせるのは、水が浅いからでもあり、私に対する川の水の思いやりが浅いからでもある)
この歌は、都が近くなってきている喜びに堪えきれず、詠んだものだろう。「淡路の御の歌に劣る。いまいましい。言わなければよかったものを」と、悔しがっているうちに夜になり寝てしまった。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

難波 1

2025年04月01日 | 土佐日記

【原文】 
六日。澪標のもとより出でて、難波に着きて、川尻に入る。みな人々、媼、翁、額に手を当てて喜ぶこと、二つなし。
かの船酔ひの淡路の島の大御、みやこ近くなりぬといふを喜びて、船底より頭をもたげて、かくぞいへる。
いつしかといぶせかりつる難波潟葦漕ぎ退けて御船来にけり
いと思ひのほかなる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に、心地悩む船君、いたくめでて、「船酔ひし給べりし御顔には、似ずもあるかな」と、いひける。

【現代語訳】
六日。澪標のところから船出して、難波に着いて、河口に入る。一同、老女、翁ともども、額に手を当てて喜ぶこと、この上ない。
あの船酔いをした淡路の島の老女殿が、都が近くなったというのを喜んで、船底から頭をもたげて、このように言った。
いつしかと…
(着くのはいつのことかと、心もとなく不安であった難波潟で、葦を漕ぎ分けながら御船はやってきたことだ)
まったく思いがけない人が言ったので、人々は不思議がる。
そんな中で、気分を悪くしていた船君が、たいそうこれを褒めて、「船酔いをなさったお顔には、似合いませんね」と言ったことである。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

住吉 4

2025年03月25日 | 土佐日記

【原文】 
いふに従ひて、幣奉る。
かく奉れれども、もはら風やまで、いや吹きに、いや立ちに、風波のあやふければ、梶取、またいはく、「幣には御心のいかねば御船も行)かぬなり。なほ、うれしと思ひ給ぶべきもの奉り給べ」といふ。また、いふに従いて、いかがわせむとて、「眼もこそ二つあれ、ただ一つある鏡を奉る」とて、海にうちはめつれば、口惜し。されば、うちつけに、海は鏡の面のごとなりぬれば、ある人のよめる歌、
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
いたく、「住江」、「忘草」、「岸の姫松」などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ。梶取の心は、神の御心なりけり。

【現代語訳】
言うままに、御幣を奉る。しかし、全然風は止まず、ますます吹き荒れ、ますます波立って、危ないので、船頭がまた言うのは、「御幣では神様がお気に召さず、船が進まないのです」。やはり、もっと神様がお気に召すものを差し上げてください」と言う。
それでまた、船頭の言うとおりに、今はしかたがないというわけで、「眼だって二つもあるのに一つしかない鏡を奉ります」と鏡を海に投げ込んのだが、まことに残念なことだ。
そうしたら、急に、海が鏡の表面のようになり、ある人が詠んだ歌は、
ちはやぶる…
(荒れ狂う神の御心を、荒れる海に鏡を投げ入れてなだめる一方、神の御心を、しっかり見ましたよ)
とても、「住江」、「忘れ草」「岸の姫松」などという(優美なことをいう)神ではありませんよね。まのあたり、、神の本心を鏡に映して見てしまった。そして、船頭の心と言うものは、神の御心そのままなのであった。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

住吉 3

2025年03月18日 | 土佐日記

【原文】 
ここに、昔へ人の母、一日片時も忘れねばよめる、
住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地、しばしやすめて、またも恋ふる力にせむ、となるべし。
かくいひて、ながめつつ来るあひだに、ゆくりなく風吹きて、漕げども漕げども、後へ退きに退きて、ほとほとしくうちはめつべし。梶取のいはく、「この住吉の明神は、例の神ぞかし。ほしき物ぞおはすらむ」とは、いまめくものか。さて、「幣を奉り給え」といふ。

【現代語訳】
その時に、亡くなった娘の母が、一日一時間も忘れることができずによんだ歌は、
住江に…
(住吉の岸にしばし船を寄せておくれ。亡くなった子の恋しさを忘れる効き目があるかどうか、忘れ草を摘んでいきたいから)
というものだった。
けっして、亡き娘を忘れたいと希望しているのではなく、恋しがる気持ちをしばらく休めて、またいずれ、恋しく思ふ力にしよう、というのであろう。
このように言って、思いにふけりながらやってくるうちに、思いがけなく、風が吹き、漕げども漕げども、船は後ろへ退き退きして、あやうく、海にはまりこんでしまいそうである。船頭が言うには、「この住吉の明神は、例の神ですよ。何かほしいものがおありなのでしょう」とは、なんと当世風であることよ。そして 御幣をさしあげてください」と言う。 


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

住吉 2

2025年03月11日 | 土佐日記

【原文】 
「今日、波な立ちそ」と、人々ひねもすに祈るしるしありて、風波立たず。今し、かもめ群れゐて、遊ぶところあり。京の近づく喜びのあまりに、ある童のよめる歌、
祈り来る風間と思ふをあやなくもかもめさえだに波と見ゆらむ
といひて行くあいだに、石津といふところの松原おもしろくて、浜辺遠し。
また、住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人のよめる歌、
今見てぞ身をば知りぬる住江の松より先にわれは経にけり

【現代語訳】
「今日、波よどうか立たないでほしい」と、人々が終日祈った甲斐があって、風も吹かず波も立たない。今、かもめが群れて遊んでいる所がある。京が近づいているのを喜んで、ある子供が詠んだ歌は、
祈り来る…
(風が吹かないように祈り続けてきて、今がその吹かぬ間と言うのに、妙なことになんで群れているかもめさえもが吹く風によって波に見えるのだろう。)
と言いながら行くうちに、石津というところの松原は趣があって、浜辺がどこまでも続いている。
また、住吉のあたりを漕いで行く。ある人がよんだ歌は、
今見てぞ…
(今、松をみてあらためて我が身を知った。千歳経る住江の松より多く、自分は齢を重ねてしまった、と)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

住吉 1

2025年03月04日 | 土佐日記
【原文】 
五日。今日、からくして、和泉の灘より小津の泊を追ふ。
松原、目もはるばるなり、これかれ、苦しければ、よめる歌、
行けどなほ行きやられぬは妹が績む小津の浦なる岸の松原
かくいひつつ来るほどに、「船とく漕げ、日のよき日に」ともよほせば、梶取、船子どもにいはく、「御船より、仰せ給ぶなり。朝北の、出(い)で来ぬ先に、綱手はや引け」といふ。このことばの歌のやうなるは、梶取のおのずからのことばなり。
梶取はうつたへに、われ、歌のやうなる言、いふとにもあらず。聞く人の、「あやしく、歌めきてもいひつるかな」とて、書き出だせれば、げに、三十文字あまりなりけり。

【現代語訳】
五日。今日、やっと。和泉の灘から小津の港を目指す。
松原が見渡す限りはるばると続いている。誰もかれも長旅でうんざりしており、詠んだ歌は、
行(ゆ)けどなほ…
(行っても行っても行きつくせないのは、女たちが紡ぐ麻糸と同様、この小津の浦に続く岸辺のの松原だ)
とまあこんな歌を詠みながら進んでいくうちに、船の主はしびれを切らして、「こら、早く船を漕げ、せっかく日和もいいんだから」と催促をする。そこで、船頭が、(岸で曳き船をしている)水夫たちに言うには、「船君が仰せられたぞ。『朝の北風が吹く前に、綱を早く曳け』とな」と言う。
この音が歌のようであるのは、船頭が自然に言った言葉である。船頭はけっして、歌のような言葉を、言おうとしているのではない。
聞く人が、「妙だな。歌めくように言ったようだな」というわけで、書き出してみれば、三十文字余であったのである。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。