21:二世市川高麗蔵の志賀大七
この絵は写楽の作品中代表作の一つである。寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」の内の敵役の志賀大七がこれである。この図は色彩でも構図でも実に単純な絵である。それだけに印象的で感銘に力強いものが感ぜられる。焦点はそのマスクである。長い顔に高い鼻、しゃくられた長い顎、紅の眼隈に彩られた、ぐっと睨んだ物凄いくぼんだ眼の光、三世高麗蔵の特異なマスクが、圧力をもってせまってくる思いがする。まさにヌボーとした気味の悪い敵役の典型的雰囲気といっていい。さらに、これに効果を与えているものが、内懐から出して、刀の柄頭を握ったポーズである。黒の着付けがさらにこの絵に雰囲気を盛り上げている。そしてこの単純な色彩に、僅かに着物の裏の濃い茶色はほんのちょっとのぞいた襦袢の赤が加わっているだけで、高麗蔵という役者のもつ色気をここに表している。そこに写楽の役者描写の極致がある。
三代目市川高麗蔵は、四代目の実子で、安永元年九歳のとき高麗蔵という名になった。天明三年に立役になり、寛政十年に実悪となり、享和元年に五世幸四郎を襲った。眼はくぼみ瞳は小さく凄みがあり、鼻の高いのが特徴で、俗に「鼻高幸四郎」と呼ばれた。若いときはやつし方であったが、実悪に転じてからは名声を高めた。芸風は繊巧で豪放、しかも写実的であった。一世の名優として天保九年五月、七十五歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この絵は写楽の作品中代表作の一つである。寛政六年五月桐座上演の「敵討乗合話」の内の敵役の志賀大七がこれである。この図は色彩でも構図でも実に単純な絵である。それだけに印象的で感銘に力強いものが感ぜられる。焦点はそのマスクである。長い顔に高い鼻、しゃくられた長い顎、紅の眼隈に彩られた、ぐっと睨んだ物凄いくぼんだ眼の光、三世高麗蔵の特異なマスクが、圧力をもってせまってくる思いがする。まさにヌボーとした気味の悪い敵役の典型的雰囲気といっていい。さらに、これに効果を与えているものが、内懐から出して、刀の柄頭を握ったポーズである。黒の着付けがさらにこの絵に雰囲気を盛り上げている。そしてこの単純な色彩に、僅かに着物の裏の濃い茶色はほんのちょっとのぞいた襦袢の赤が加わっているだけで、高麗蔵という役者のもつ色気をここに表している。そこに写楽の役者描写の極致がある。
三代目市川高麗蔵は、四代目の実子で、安永元年九歳のとき高麗蔵という名になった。天明三年に立役になり、寛政十年に実悪となり、享和元年に五世幸四郎を襲った。眼はくぼみ瞳は小さく凄みがあり、鼻の高いのが特徴で、俗に「鼻高幸四郎」と呼ばれた。若いときはやつし方であったが、実悪に転じてからは名声を高めた。芸風は繊巧で豪放、しかも写実的であった。一世の名優として天保九年五月、七十五歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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