静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

高齢者は『延命治療』を当然視しない振り返りを!

2023-11-24 08:27:11 | トーク・ネットTalk Net
週刊現代◇◆66万人が延命状態…”自然な看取り”は「姥捨て山/弱者切り捨て」なのか?・・・試算して分かった「延命治療」費用の実態 【中田 智之】
                           
(序)もともと介護保険制度は老々介護やヤングケアラーなど、家族内介護負担による生活困難を解消する目的で制度がつくられてきました。団塊の世代が後期高齢者となる2025年問題を間近に控え、さらなる介護
  雇用の増加、および現役世代の負担増しか未来はないのでしょうか。
   およそ半世紀前、「揺りかごから墓場まで」の考えで社会保障を拡大させてきたイギリスやスウェーデンでも同様の問題に直面。その本質的な解決は、『緩和ケア』の考え方の普及によって行われてきました。
  緩和ケアは、死とは避けられない人生の一部であると考えた時、高齢者が最期まで自分らしく生きるために必要な介護や医療は何であるかという観点で、介護と医療のありかたを再考したものです
             
                       
   上のQRコード:一つ目は「要介護認定4・5高齢者の健康状態分布(2019年度)」     二つ目は「人口栄養導入手術年間件数推移(2014-21年)」

・寝たきり高齢者がほとんどいないことで有名なスウェーデンの基準では、自力で座った姿勢を取れない、失禁を繰り返す、一貫性のある会話ができない高齢者は、人工的な栄養補給は行わず緩和ケアによる看取りの
 段階と判断されます
。1992年のエーデル改革を経て現代にいたるまでに、スウェーデン国民の“死生観”は大きく変化し『緩和ケア』による看取りは普及。約半世紀遅れて高齢者福祉が行き詰りつつある日本でも、
 同様の変化は次第に進んでいくものと思われます。

・一つ目のグラフ:日本の認定度4&5を海外先進国の基準にあてはめると、要介護度4の1/4・要介護度5の3/4は緩和ケアによる看取りが適応される状態にあると推察され、要介護度4および5から改善がみられた
 事例は少数であったことから、これを延命医療の割合と仮定します。
  要介護度4の総介護費は2.6兆円・要介護度5は2.0兆円であるため、海外先進国では延命状態とみなされる高齢者に費やされている介護費は、およそ2.15兆円。
  要介護度4は87万人・要介護度5は59万人が認定されているため約66万人が延命状態と推計され、ここに年金平均受給額である月額14.4万円を乗算すると年間およそ1.14兆円。
 以上から延命状態の高齢者に費やされている社会保険料は、介護・年金をあわせて約3.3兆円という推計になりました。令和4年度の文教予算・防衛予算それぞれともに5.3兆円であったことと比較すると、
 財政や現役世代の社会保険料負担に与える影響は大きいのではないでしょうか。

★ 仮に明確な延命医療だとしても今現在行われている人工栄養を中止することは、様々な問題や困難を伴います。また、延命医療を選ぶ権利は常に尊重しなければなりません。
  それでも延命医療から緩和ケアによる看取りへという価値観の変化は、日本においても次第に広まりつつあります。一例としてレセプト情報データベースにおける高齢者人口増分を考慮すると、後期高齢者に対する
  胃ろう造設件数は2014年と比較して約25%減少しました。
   一方で太い血管に直接栄養を流し込む人工栄養法は減少していません。厳密にいえば手足に行う普通の点滴といえど、痛みや行動制限を伴う人工的な栄養補給であり、延命医療と緩和ケアの線引きの理解が
  不十分な部分と言えます。

◎ 今般の社会保障費の見直し議論を契機として高齢者を看取る家族だけでなく医療従事者においても緩和ケアの考え方が周知されることで、まだまだ動けるからこそ
  介護負担が最も大きい要介護度3の高齢者へのサポートを手厚くすることもできるようになります
   限りある医療介護リソースの本質的な意味での適正配分によって現役世代の社会保険料負担だけではなく、介護する家族と介護従事者の負担も軽減されることになる
  のではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本件は、医療資源の最適配分だけでなく、11月16日の本コラムで取り上げた”<死ぬ権利>を巡る「安楽死」ではなく『尊厳死』に直結するテーマ”でもある。
大富豪が自費で医療介護支出を賄い、税金支出に頼らないなら別だが、そうでない者は健康保険や介護保険料支払いのカタチで若年世代に背負われており、それを恰も当然の
権利のように錯覚する人が多い。公的保険制度とは社会全体の互助組合であり、バトンを順繰りに受け継ぐ申し送りに過ぎない。先に生まれた者が恩恵を受けて当然でなない。

 中田氏が上に述べる【死とは避けられない人生の一部であると考えた時、高齢者が最期まで自分らしく生きるために必要な介護や医療は何であるかという観点】の中でも下線を施した部分は即ち≪ 尊厳ある老い&死 ≫を言っている。【心身の自由を失った老耄は既に死の一部】と捉えるところから緩和ケアが始まる。そのように私は見做しており、
全ての延命措置謝辞と尊厳死要請を親族に10年以上前から伝え(日本尊厳死協会)発行のカードを日々携行し、救急搬送に備えている。
 勿論(いくら心身の自由を失おうとも死ぬまで延命措置を最期まで続ける)と親族&本人が考える自由は「死ぬ権利」と同等に尊重される。それが多様性の受容だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評180-2】〆  触法精神障害者    ~ 医療観察法をめぐって 〜   里中 高志 著     中央公論新社  2023年8月

2023-11-22 08:32:05 | 書評
 【書評180-1】の冒頭で示したように、本書は、精神に異常をきたして刑事犯罪を犯した障碍者を取り巻く現状と問題意識を提起するルポルタージュなので、その構成は、
医療観察法病棟(以下、病棟)の中でどのような治療が行われの現場レポートに始まり、そこに里中氏は何を問題視したのか?から説き起こす。
 私を含め、大多数の人には縁遠い世界なので、できるだけ簡潔に要約を試みてみる。

* 病棟での治療は「急性期」「回復期」「社会復帰期」に3区分される。2020年4月1日現在、全国の入院対象者は789名(男595,女194)。
  入院対象者の殆どは犯行の記憶も不確かで、静かな個室で落ち着かせ、自分が精神の病い(=統合失調症)だと認識していないので「あなたは病気だ」と認識させること
  から始まるのが<急性期>。次に、なぜ自分は犯行に至ったのか、幼児体験・家庭&学校環境・職場環境等を思い起こさせ、遠因を考えさせるのが<回復期>。
  次は、社会生活に馴染めるように外出・買い物・外泊経験などをしながら、受け入れ病院或いは作業所、住居等を手配するのが<社会復帰期>。

◆ 様々な人とのインタヴューや現場観察から著者が得た疑問点は以下のとおり。   ← 青字は筆者(小李)の見解。
 1.「回復期」に行われる(セルフモニタリング)(内省プログラム)の有効性に疑義を投げる当事者も少なくない。本人には過酷で辛い時間を過ごすわけで、
   社会復帰に回帰できる人ばかりでなく、自殺者も 1.6% 居る(70人/4,373人:2020.12月末)。← これを致し方ないと解釈することもできる。
 2.病棟は国家予算で運営されるので、一定数の病床が埋まらないと運用が困難になりかねない。従い、基準とされる収容期間を超えた入院者の維持も発生する。
   ここから民間病院並みに『医療観察法病棟がビジネス化している』との批判も起きている。← これは、退院後の受け入れ先・生活基盤確立が難しい対象者の存在も影響。
    ⇒ 1968年、国連のWHOから派遣されたクラーク博士は長期収容の弊害を予告しており、博士の予言は55年後の今、現実の姿となっている。

 3.長期収容の現実から、病棟が国家による治安維持を図る『予防拘禁』『保安処分』の手段と化している、と批判する団体もある。この論者は『収容ではなく、
   精神障害発生の背景にある社会の歪みを是正すべきだ』との議論に傾くことが多い。←産業革命以来、 ストレスの満ちる現代社会が精神弱者を産むのは不可避では?  
 4.病棟が<治安維持を図る『予防拘禁』『保安処分』の手段と化している>との批判に対し、治安維持は刑法の目的であるから、刑法に触法精神障害者の処遇に関する
   条項を盛り込むべきだ、との意見がある(井原医師:独協医科大学埼玉医療センター教授)。
   「現実に医療観察法第1条は社会復帰を目的と掲げており、治安維持が目的とは定めていない。刑法及び刑事訴訟法に公共の福祉と個人の基本的人権保障を二本立てに
   規定し、更には、一般の精神病院で暴力行為を働いた障碍者を予防拘禁している現状は裁判なき逮捕&無期拘禁だから刑法で処遇すべき」と井原医師。
    
◇ 最後に著者は、被害者遺族の「知る権利」について述べている。病棟に収容された対象者(=遺族にとっては加害者)の動静を何も教えてもらえず、収容が終了したあとも
  情報開示されなかった状況に不満を抱いた男性が北海道法務局に直訴。時の上川法務大臣が通達を出した結果、以下の情報開示が実現した(2018年6月)。
   ・氏名  ・処遇の段階(上記の3期)  ・(収容終了後の)担当保護観察所の名称と所在地域  ・収容中の専門家接触回数
★ 加害者が正常に社会復帰できたとしても遺族の悲しみ・無念さは消えない。せめて当人が障害を克服してくれることで癒しの一助とするしか遺族には残されていない。

著者は治療に携わる人々の前向きな姿勢に励まされたと言い、「加害者支援と被害者支援の一体化」が急務だと述べる。同時に、自分は治療対象者の心の内側にどこまで迫れたのか?と反省もしている。  私は、ここまで読み、真摯で好ましい著者の見習うべき姿勢に敬服した。
(あとがき)で≪ 一般に精神障害に寛解はあっても完治しない ≫の俗説を著者はインタヴュー結果から否定する。それは著者自らが若い頃、軽い鬱病状態になった経験も踏まえており、精神障碍者を隔離排除する政府並びに日本社会の姿勢を静かに糾弾している。 
  以上、まことに辛い内容だが、死刑存続論議に繋がる「罪と罰」の原点と併せ、精神障害と罰の在り方を考えるには時宜を得た良書だ。    < 了 >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評180-1】  触法精神障害者    ~ 医療観察法をめぐって 〜   里中 高志 著     中央公論新社  2023年8月

2023-11-21 20:44:10 | 書評
★ 何故、私は重く辛い本書を読むことにしたのか? それは「罪と罰」「更生と社会復帰」「刑罰と被害者の心情」にまつわるモヤモヤが消えていない中、加害者の中で
  精神に異常をきたしたと認定された人を治療する事が「更生」になるのか? それが被害者にとり、少しでも救いになるのか?
  ・・・・私が長く抱く此の疑問に応えてくれるなら、と期待したゆえの読書である。 

 本書は、精神に異常をきたし刑事犯罪を犯した障碍者を取り巻く現状と問題意識を提起するルポルタージュ。まず、本書の概説と書評を述べる前に、基本的な用語と判断基準
 を確認しておきたい。それは私自身が読み進みながら、法律用語と概念理解の難しさを強く感じたためである。 キーワードには太字または下線を施した。

・「触法精神障害者」は<精神に異常をきたし、刑法に抵触する「他害」を行った者>である。「他害」とは、人に怪我を負わせる・死に至らしめる行為。
・ 多くの暴力傷害事件や殺人事件で検挙される者の殆どは「触法精神障害者」と認定されないので、精神病院ではなく刑務所に送られる。
・ 刑務所の中には”軽度の精神障害あり”と認められた受刑者の加療に当たる医療設備と人員を有する場所もあるが、判決が刑法第39条に定める条項を適用し『責任能力なし』
  と認定された加害者(=法律用語では対象者と呼ぶ)だけが収容される施設を著者が訪れ、関係する専門家や弁護士から聞き取った記録から本書のテーマが浮かび上がる。
  この施設は「医療観察法」(2003年成立,2005年施行)により全国に設けられた医療観察法病棟と呼び、従来からある精神病院とは違う。
・ 「医療観察法」成立は、大阪府池田市にある大阪教育大付属池田小学校で起きた児童殺傷事件(2001年)が直接の引きがねになった。

・ 刑法第39条に定める条項とは<1.心神喪失者の行為は罰しない  2.心神耗弱(こうじゃく)者の行為は。その刑を減刑する>
・「責任能力」とは<自分の行為の善悪に関して適切に判断する能力>で、善悪を判断する「弁識能力」と、その判断に従って自分の行動をコントロールする「制御能力」。
  前者を欠いた状態が心神喪失、後者は心神耗弱(こうじゃく)と分類され、前者は医療観察法病棟に収容。後者も同じだが、症状により受刑者の加療に当たる医療設備と
  人員を有する刑務所に収容される場合もある。
・ 「責任能力」の最終的な認定は、精神科医ではなく裁判官が行う。精神鑑定は飽くまでも参考にされるだけと位置付けられており、上記(池田小事件)や相模原市の
  (やまゆり園事件)でも加害者は責任能力アリと裁定され、実刑が執行されている。
・ 心神喪失と鑑定された対象者の約7割が『統合失調症』と診断されるが、其の多くは妄想・幻想・脅迫観念に自分が捉われている事に気づかない、或いは気づいていても
  暴力的衝動から脱しきれない為、「弁識能力」「制御能力」を共に失い、加害行為を犯してしまう。『統合失調症』は嘗て『精神分裂症』と称していたが、現在は
  『精神分裂症』と呼ばない。
◎ 「責任能力」及び刑法第39条の考え方の起源:精神障害者の犯罪をどう裁くか?(英国)1843年マクノートン・ルールに発し、日本では大審院判決(1931年)採用。
  『責任能力の考え方の基本に、法は不可能なことを人間に要求しないという西洋近代法の大前提があります』 <池原毅和(きよかず)弁護士>  60頁
・ 「医療観察法」成立(2003年)から2020年12月までの累計収容者数:4,373人。

 基礎的な事項はカヴァーしたと思うので、次は里中氏が抱いた論点の中から重要と思った事柄について述べてゆきたい。            < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

匿名性を隠れ蓑にし 思慮なく言葉を放つSNS そこに真の言論も言論の自由も無い  悪用ばかりがはびこる

2023-11-21 12:52:39 | 時評
【Financial Times 11/12 電子版】SNSは言論の自由に適さず  コラムニスト Jemima Kelly(ジェマイマ・ケリー)
 原文のタイトルは『Free Speech can't Flourish online』 和訳記事のタイトル付けとは直接向き合わない感じだが、訳文をまず全文転載する。

・言論の自由が重要だという論調が強まっている。危機の時代には、処罰や検閲を恐れることなく発言する自由が試される。だが、対話の多くがオンライン上で交わされる世界で、言論の自由はこれまで通り役割を
 果たすことができるのだろうか。

 最近、声高に言論の自由を唱えているのはSNSのX(旧ツイッター)を買収したイーロン・マスク氏だろう。マスク氏はポッドキャスト番組で「言論の自由の重要な点はありていに言えば、君の嫌っている人間でも
 君の嫌がることを言えるということだ」と話した。「君の嫌いな人間が君の嫌がることを言えるということは、彼らにも君の発言を止められないということだ。それはとても大事なことだ」

 しかし、単に言いたいことをとがめられずに発言するのが「言論の自由の重要な点」ではない。それは、真実を完全に理解できない我々人間という不完全な生き物が、せめて真実に近づけるようにすることだ。
 声なき人々に発言権を与え、俗受けしない意見も表明できるようにすれば、我々はある種の共通の理解に向かって、ふらつきながらも前進できるかもしれない。


言論の自由が機能するには、共通の理解に到達したいと思うことが必要だ。そうでなければ真実に近づくのではなく、遠ざかってしまう。言論の自由は真実や善が自動的に導かれる受動的な仕組みではない。むしろ、
ある種のエネルギーだ
。正しい方法で活用しなければ役に立たない。しかるべきインフラが整備されていなければ、真実や共通の見解にたどり着く力にはならず、意味のない騒音をただ増幅するだけだ。こうした騒音の中で、言論の自由という原理そのものが悪用される可能性もある。今日の会話は、コーヒーハウスなどの社交場で交わされているわけではない。会話が多く飛び交うSNS上では自分が生身の人間ではなく2次元の
アバターであるかのように振る舞い、他者もそうみなすようになっている。


・言論の自由を声高に擁護する人物がもう一人いる。コラムニストで「言論の自由連合」の創設者兼ディレクターのトビー・ヤング氏だ。同氏はヘイトスピーチ(憎悪表現)や誤情報、偽情報に適切に対処するには、
 言論をより多く、より良質にしなければならないという「カウンタースピーチ」論を支持している。この手法は100年前なら通用したかもしれない。だが、オンライン時代の今では自由な言論を交わしても真実や
 進化、正義に自動的につながることはない。Xを垣間見れば明らかだ。

* 言論の自由は本来、真実に近づくための手段であり、そうあってほしいと切実に願うなら、人目を引く280文字の短文投稿サイト以外に議論する場を見つける必要がある。
 マスク氏のXは今後もゆっくりと退屈な死に向かっていく。それはありがたいことかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ソーシャルネットワーク(SN)の場では、問題提起し解決案を提示する積極的な言論を交える人は少なく<敵意・憎悪・気晴らし・暇つぶしetc.>からごったまぜの鍋のように言葉が入り乱れる。匿名性に身を隠した無責任な言葉遣いは共感をすら始めから求めず、空中に言いっ放しだ。そこにはケリー氏が言う「共通の理解を探す」姿勢は皆無。
 立ち止まって考えず空気に乗ることが「是」であり、言葉を慎重に吟味しつつ対面で語り合う事から得られる相互理解など面倒だから、と避ける。

(なに、玉石混交の中から何かが残ってゆくのだから、硬いことを言うな。)たぶん、これがイーロン・マスク氏が象徴するSNコミュニケーション礼賛派の信念。

 ケリー氏はマスク氏流のアプローチそのものへの疑いに加え、デマゴーグ(扇動家)による悪用・乗っ取りの危険を本記事で訴えているのである。杞憂と済ませられるか?
言論の自由云々以前に、SNで飛び交う悪意・中傷・揶揄・妨害が社会不安に拍車をかけている側面を今やだれも否定できず、モノをキチンという事自体が忌避されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評180-1】  触法精神障害者    ~ 医療観察法をめぐって 〜   里中 高志 著     中央公論新社  2023年8月

2023-11-21 09:51:45 | 時評
★ 何故、私は重く辛い本書を読むことにしたのか? それは「罪と罰」「更生と社会復帰」「刑罰と被害者の心情」にまつわるモヤモヤが消えていない中、加害者の中で
  精神に異常をきたしたと認定された人を治療する事が「更生」になるのか? それが被害者にとり、少しでも救いになるのか?
  ・・・・私が長く抱く此の疑問に応えてくれるなら、と期待したゆえの読書である。 

 本書は、精神に異常をきたし刑事犯罪を犯した障碍者を取り巻く現状と問題意識を提起するルポルタージュ。まず、本書の概説と書評を述べる前に、基本的な用語と判断基準
 を確認しておきたい。それは私自身が読み進みながら、法律用語と概念理解の難しさを強く感じたためである。 キーワードには太字または下線を施した。

「触法精神障害者」は<精神に異常をきたし、刑法に抵触する「他害」を行った者>である。「他害」とは、人に怪我を負わせる・死に至らしめる行為。
・ 多くの暴力傷害事件や殺人事件で検挙される者の殆どは「触法精神障害者」と認定されないので、精神病院ではなく刑務所に送られる。
・ 刑務所の中には”軽度の精神障害あり”と認められた受刑者の加療に当たる医療設備と人員を有する場所もあるが、判決が刑法第39条に定める条項を適用し『責任能力なし』
  と認定された加害者(=法律用語では対象者と呼ぶ)だけが収容される施設を著者が訪れ、関係する専門家や弁護士から聞き取った記録から本書のテーマが浮かび上がる。
  この施設は「医療観察法」(2003年成立,2005年施行)により全国に設けられた医療観察法病棟と呼び、従来からある精神病院とは違う。
・ 「医療観察法」成立は、大阪府池田市にある大阪教育大付属池田小学校で起きた児童殺傷事件(2001年)が直接の引きがねになった。

・ 刑法第39条に定める条項とは<1.心神喪失者の行為は罰しない  2.心神耗弱(こうじゃく)者の行為は。その刑を減刑する>
「責任能力」とは<自分の行為の善悪に関して適切に判断する能力>で、善悪を判断する「弁識能力」と、その判断に従って自分の行動をコントロールする「制御能力」
  前者を欠いた状態が心神喪失、後者は心神耗弱(こうじゃく)と分類され、前者は医療観察法病棟に収容。後者も同じだが、症状により受刑者の加療に当たる医療設備と
  人員を有する刑務所に収容される場合もある。

・ 「責任能力」の最終的な認定は、精神科医ではなく裁判官が行う。精神鑑定は飽くまでも参考にされるだけと位置付けられており、上記(池田小事件)や相模原市の
  (やまゆり園事件)でも加害者は責任能力アリと裁定され、実刑が執行されている。
・ 心神喪失と鑑定された対象者の約7割が『統合失調症』と診断されるが、其の多くは妄想・幻想・脅迫観念に自分が捉われている事に気づかない、或いは気づいていても
  暴力的衝動から脱しきれない為、「弁識能力」「制御能力」を共に失い、加害行為を犯してしまう。『統合失調症』は嘗て『精神分裂症』と称していたが、現在は
  『精神分裂症』と呼ばない。
◎ 「責任能力」及び刑法第39条の考え方の起源:精神障害者の犯罪をどう裁くか?(英国)1843年マクノートン・ルールに発し、日本では大審院判決(1931年)採用。
  『責任能力の考え方の基本に、法は不可能なことを人間に要求しないという西洋近代法の大前提があります』 <池原毅和(きよかず)弁護士>  60頁
・ 「医療観察法」成立(2003年)から2020年12月までの累計収容者数:4,373人。

 基礎的な事項はカヴァーしたと思うので、次は里中氏が抱いた論点の中から重要と思った事柄について述べてゆきたい。            < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする