静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評179-4】〆  塹壕の四週間   ~あるヴァイオリニストの従軍記〜   フリッツ・クライスラー著  伊藤 氏貴(訳)   鳥影社  2021年7月

2023-11-13 08:00:25 | 書評
 訳者・伊藤氏が立てた設問は二つあり、どちらも自然な疑問からである。
1.(志願して入隊した若き日、そして招集令状に従い戦場で戦ったことと、除隊後の戦傷者への慈善活動はKの心の中でどう折り合いをつけていたのか?)
2.(戦場での過酷な体験と除隊後に受けた攻撃や差別で苦しんだ日々はKの演奏&作曲活動に暗い影を落としたのではないか?)

 この設問を巡る伊藤氏の解釈はこうだ。19世紀風な国家・君主への忠誠心と騎士道的愛国心が除隊後は薄まり、ヒトラー抬頭後は反ユダヤ主義や国家主義への反発から
音楽や芸術に国境はない>の立場をKは鮮明にするようになる。他方<音楽が精神的価値では国家よりも上であっても、現実的な力の点で音楽が成し得ないことも多くある
と悟り、死線を彷徨う極限体験から『芸術・音楽が人生においてあるべき位置』をわきまえていた(伊藤氏)。

 国家の存亡を賭けた戦争のさなかに生きる人間として、芸術をよすがにしてきた者は如何に振舞うべきか?この問いは古今東西続く。例えば、本コラム【書評】で取り上げた
エーリッヒ・ケストナー、イサム・ノグチ。此の人たちの人生はKと同様、芸術家としての個人が国家とどう向き合うかという問いそのものであった。前回も触れたが、
殆どの芸術家は実戦体験をもたず、世間から隔絶した環境で生き延び、世間と対峙した。 たとえば永井荷風。
 数少ない例外に大岡昇平が居る。彼が復員後に発表した作品や反戦活動をKと比べるのは年齢も時代環境も違うため難しいが、大岡自身がどこまでKと同じような
『芸術が人生においてあるべき位置』を意識していたか? これは第二次大戦後の反戦・反国家主義活動に<芸術家としての個人が国家とどう向き合うかという問い>が
内臓されているか?という問いでもある。

 「あとがき」の後半で伊藤氏はモーッアルトを例に出し、天才の域にある芸術家なら俗世間とは別の居場所で生きられる事を語る。王侯貴族への奉仕しか生きる術がない
のがモーツアルトの時代だが、才能に溢れる芸術家は20世紀以降の今も現世と敢えて隔絶して生きられる。だがKは孤高の境地に留まろうとせず、日常生活と離れなかった。

 また伊藤氏は、Kの編曲・作曲した作品は超絶技巧をひけらかすのではなく、アマチュアでも演奏可能で優美な小品を好んで発表している点に注目した。
K自身にパガニーニ並みの技術が欠けていたからではない。若い頃はベートーヴェンやブラームスの協奏曲を著名なフィルハーモニー管弦楽団と共演しているし、パガニーニの作品を弾きこなし、タルティーニの『悪魔のトリル』最終楽章にカデンツァを付けている。なのに、例えばバッハに代表される荘厳で重苦しい曲や技巧を駆使して絶叫する作品を演奏せず作曲もしなかった。Kには、19世紀以降のヴァイオリンコンチェルトが代表する一種のショーヴィニズム的偏向を嫌うところが若い頃からあったのだろう。

 逸話として残るのが、慈善活動のほか、貧しい後輩に惜しげもなく保有する名器を与えた。また、録音に一言も注文を付けず、オケとの共演ではリハーサル時間を極力短縮したり、カデンツァ部は最初と最後の部分しか弾かないという気遣いをみせたという。このようなKの生きざまに伊藤氏は【中庸】という漢語を充て、戦場や亡命の体験を経ても尚バランス感覚を失わなかったクライスラーに、誰からも愛された人徳をみる。 芸術家は或る種の特権階級意識に生きてきた。それは必要な環境だと言えば否定できないが、一人の人間としての在り方に照らせばどうなのか? 本書は此の深い問に気付かせてくれる良書である。                     < 了 >
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