いやいや、話が大きくなりすぎた。
こんな、大風呂敷を広げて収集がつかなくなるような話をしたかったんじゃないんだ。
戻そう。
「私性」とは何か。
何度も繰り返すが、初めは素朴だった「私性」観も歴史とともに進歩し多様化してきた。
特に前衛短歌の時代でフィクションの概念が導入された(実はそれ以前からもあったらしいが)ことで、「私性」の範囲が一気に拡充する。有名なところでは寺山修司が死別した母を(実際は修司より長生きした)、塚本邦雄が父との思い出を(実際は乳児の頃に亡くなった)、平井弘が戦死した兄を(彼に兄はいない)。
このフィクション性については今でも論議の的になるほどだが、現在歌人でもこの手法を取り入れている人は多い。と言うより、(大なり小なり)取り入れていない歌人の方が少ないんじゃないだろうか。
この手法が「私性」の概念を大きく揺さぶったのは事実だろうが、「私性」の範囲の拡充には大きく貢献したものの「私性」そのものの破壊には繋がらなかった。
なぜか?
フィクション性を導入した歌のほとんどが、「If」の世界の中で「私」を歌ったからじゃないか、と僕は思う。
さっきの例で言うと、寺山は「母が死んでいる世界の『私』」を想像した。塚本は「もし父が生きていたら」の世界の私、平井は「戦死した兄がいたら」の世界の私を。
つまり「If」の世界を構築し、その中に自分を送り込んだ。送り込んだ自分本体は現実の自分と変わらないから、基本的に「私性」の定義からは外れていないわけだ。まあ、世界に引きずられて多少人格や行動が変わるかもしれないが。
要するにここでも「一人称の文学」というあのテーゼが付き纏っているわけだ。どんなに飛躍しようとも同じ大地の上なんだから類似性は見つけられるし、戻ろうと思えば元の地点に帰ることも可能だ。
世界じゃなくて自分を「If」とする手法もある。自分以外のもの、例えば友人でも異性でも、歴史上の人物でもスーパーヒーローでもいい(いっそ街路樹とかスベスベマンジュウウニとか人外の物もおもしろいかもしれない)。そういったものに自分がなったという「If」、そんな視点で作った歌というのも、当然あるだろう(今すぐに例が思い浮かばないのが情けないが)。
でも、その手法でも先ほどのロジックから抜け出せている歌は少ないように思う。自分が女やヒーローや街路樹やスベスベマンジュウウニになったとしても、中に入った意識が自分本体であるならば、やはりそれは「私」なわけだ。同じ地平の上に存在することになる。
結局、自分のパーソナリティから歌を切り離さない限り、「私性」「一人称」の問題は、夕闇に伸びる影のようにいつまでもついて離れない。ジャンプしたって木に登ったって、いずれ地に降りなきゃいけないのなら逃げられないのだ。
「自分のパーソナリティから作品を切り離す」なんてこと出来るのか、とも思うが、他の文学では割合普通にやっているような気がする。小説は言わずもがなだし、現代詩もそれに近い試みをやっているはずだ。俳句は短歌と似た形式だけれど、その短さ故か他の特質があるのか、むしろ「私」を込めない方向で進化してきているように思う。
「どんなに他者を描こうと、描く筆そのものは自分なのだから、パーソナリティを切り離したことにはならない」という理屈も成り立つが、短歌史の「私性」へのどっぷり具合と比べると、興味深いのは事実だろう。
文学じゃないけれど比較するとおもしろいのは芝居だ。特に、俳優たち個々の、役への取り組み方の違い。
ある役者は、役そのものに成りきる。台本にも書いていないその役の人生を作り出し、メンタリティまで別人となる。少なくともそれを目指す。
別の役者は、どんな役でも自分を前面に出す。役作りをしないではないが、むしろ己の個性を完璧に把握し、その表現に全力を尽くす。役は後からついてくる、という考え方だ。
この両極端を歌人に当てはめてみると、おもしろくないだろうか。
ここで、「そんなに違った表現が好きならば、小説家に(または俳人に、役者に)なればいいじゃないか」と言うのは、ちょっとずるいと思う。
短歌にそういうことが向いているかどうかはともかく、可能性の話を今はしているのだから。
柔道の大会でレスラーが勝って、「あの戦い方は柔道じゃない」と言われても話が違うのと同じだ。
さて、長くなった。スケッチや落書きをどれほど積み重ねても、役に立つ結論は出ない。
でもまあ、「自分はこんな事を考えていたのか」という驚きを感じることは、(運が良ければ)できるだろう。
最後に自分のこと。
お前にとって、「私性」とはなんなのか。
(そんな難しい質問にすらすら答えられるくらいなら、こんなに文を連ねてはいないよ。)
でも、強いて言えば「主人公を創造する」こと、だろうか。
一首の、あるいは連作中の主人公。それは自分自身でも、他の誰かでもいい。詠み人が納得でき、読む人もそれに納得できる主人公を描く。それが、僕にとっての(今のところの)「私性」。
更に理想を言えば、先に挙げた役者の、両極端の一方。自分がその役として歌うのではなく、役そのものが歌う。例えば、少女になった自分ではなく、そこに歩いている少女そのものが短歌を歌ったとしたら。ウルトラマンが、ポプラ並木が、揚げたてのコロッケが歌ったとしたら、どんな短歌を歌うだろう。
そうやって歌われた歌に、「私性」はどのように宿るのだろう。
いや、とっても美しい、見果てぬ夢物語だってことは分かってるんですよ?
でもさ。それくらいの夢は、ね。