はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

「私性」ぐるぐる (3)

2011年10月08日 19時20分03秒 | インターミッション(論文等)

 いやいや、話が大きくなりすぎた。
 こんな、大風呂敷を広げて収集がつかなくなるような話をしたかったんじゃないんだ。
 戻そう。
 「私性」とは何か。
 何度も繰り返すが、初めは素朴だった「私性」観も歴史とともに進歩し多様化してきた。
 特に前衛短歌の時代でフィクションの概念が導入された(実はそれ以前からもあったらしいが)ことで、「私性」の範囲が一気に拡充する。有名なところでは寺山修司が死別した母を(実際は修司より長生きした)、塚本邦雄が父との思い出を(実際は乳児の頃に亡くなった)、平井弘が戦死した兄を(彼に兄はいない)。
 このフィクション性については今でも論議の的になるほどだが、現在歌人でもこの手法を取り入れている人は多い。と言うより、(大なり小なり)取り入れていない歌人の方が少ないんじゃないだろうか。
 この手法が「私性」の概念を大きく揺さぶったのは事実だろうが、「私性」の範囲の拡充には大きく貢献したものの「私性」そのものの破壊には繋がらなかった。
 なぜか?
 フィクション性を導入した歌のほとんどが、「If」の世界の中で「私」を歌ったからじゃないか、と僕は思う。
 さっきの例で言うと、寺山は「母が死んでいる世界の『私』」を想像した。塚本は「もし父が生きていたら」の世界の私、平井は「戦死した兄がいたら」の世界の私を。
 つまり「If」の世界を構築し、その中に自分を送り込んだ。送り込んだ自分本体は現実の自分と変わらないから、基本的に「私性」の定義からは外れていないわけだ。まあ、世界に引きずられて多少人格や行動が変わるかもしれないが。
 要するにここでも「一人称の文学」というあのテーゼが付き纏っているわけだ。どんなに飛躍しようとも同じ大地の上なんだから類似性は見つけられるし、戻ろうと思えば元の地点に帰ることも可能だ。
 世界じゃなくて自分を「If」とする手法もある。自分以外のもの、例えば友人でも異性でも、歴史上の人物でもスーパーヒーローでもいい(いっそ街路樹とかスベスベマンジュウウニとか人外の物もおもしろいかもしれない)。そういったものに自分がなったという「If」、そんな視点で作った歌というのも、当然あるだろう(今すぐに例が思い浮かばないのが情けないが)。
 でも、その手法でも先ほどのロジックから抜け出せている歌は少ないように思う。自分が女やヒーローや街路樹やスベスベマンジュウウニになったとしても、中に入った意識が自分本体であるならば、やはりそれは「私」なわけだ。同じ地平の上に存在することになる。
 結局、自分のパーソナリティから歌を切り離さない限り、「私性」「一人称」の問題は、夕闇に伸びる影のようにいつまでもついて離れない。ジャンプしたって木に登ったって、いずれ地に降りなきゃいけないのなら逃げられないのだ。

 「自分のパーソナリティから作品を切り離す」なんてこと出来るのか、とも思うが、他の文学では割合普通にやっているような気がする。小説は言わずもがなだし、現代詩もそれに近い試みをやっているはずだ。俳句は短歌と似た形式だけれど、その短さ故か他の特質があるのか、むしろ「私」を込めない方向で進化してきているように思う。
 「どんなに他者を描こうと、描く筆そのものは自分なのだから、パーソナリティを切り離したことにはならない」という理屈も成り立つが、短歌史の「私性」へのどっぷり具合と比べると、興味深いのは事実だろう。
 文学じゃないけれど比較するとおもしろいのは芝居だ。特に、俳優たち個々の、役への取り組み方の違い。
 ある役者は、役そのものに成りきる。台本にも書いていないその役の人生を作り出し、メンタリティまで別人となる。少なくともそれを目指す。
 別の役者は、どんな役でも自分を前面に出す。役作りをしないではないが、むしろ己の個性を完璧に把握し、その表現に全力を尽くす。役は後からついてくる、という考え方だ。
 この両極端を歌人に当てはめてみると、おもしろくないだろうか。

 ここで、「そんなに違った表現が好きならば、小説家に(または俳人に、役者に)なればいいじゃないか」と言うのは、ちょっとずるいと思う。
 短歌にそういうことが向いているかどうかはともかく、可能性の話を今はしているのだから。
 柔道の大会でレスラーが勝って、「あの戦い方は柔道じゃない」と言われても話が違うのと同じだ。


 さて、長くなった。スケッチや落書きをどれほど積み重ねても、役に立つ結論は出ない。
 でもまあ、「自分はこんな事を考えていたのか」という驚きを感じることは、(運が良ければ)できるだろう。

 最後に自分のこと。
 お前にとって、「私性」とはなんなのか。
(そんな難しい質問にすらすら答えられるくらいなら、こんなに文を連ねてはいないよ。)
 でも、強いて言えば「主人公を創造する」こと、だろうか。
 一首の、あるいは連作中の主人公。それは自分自身でも、他の誰かでもいい。詠み人が納得でき、読む人もそれに納得できる主人公を描く。それが、僕にとっての(今のところの)「私性」。
 更に理想を言えば、先に挙げた役者の、両極端の一方。自分がその役として歌うのではなく、役そのものが歌う。例えば、少女になった自分ではなく、そこに歩いている少女そのものが短歌を歌ったとしたら。ウルトラマンが、ポプラ並木が、揚げたてのコロッケが歌ったとしたら、どんな短歌を歌うだろう。
 そうやって歌われた歌に、「私性」はどのように宿るのだろう。

 いや、とっても美しい、見果てぬ夢物語だってことは分かってるんですよ?
 でもさ。それくらいの夢は、ね。

「私性」ぐるぐる (2)

2011年10月08日 19時17分16秒 | インターミッション(論文等)

 「私性」とは、大げさでなく短歌の根本に関わるほどの概念なんだけど、その割には(少なくとも近年は)あまり話題になってない気がする。特に若い歌人たちの間では。やっぱり「古くさい」っていうイメージがあるんだろうか。
 「なんだかよく分からん」っていうこともあるかもしれない。そんな声もいくつか、インターネットなどで見た。
 実際、この言葉を「これこれこうです」とすらすら説明するのは、とんでもなく難しい。いや、昭和前期くらいまでならばむしろ当然の概念として一言のもとに説明できたのだろう。でも、前衛短歌の時代にいわゆる「私性論争」というのが起きたそうで、そのおかげ(ばかりでもないんだろうが)でやたらにいろんな見方や考え方が飛び出した。さらにニューウェーブやら何やらが拍車をかけ、もはや収集がつかなくなっているらしい。
 例えば、『岩波現代短歌辞典』では穂村弘が2ページを使って「私性」について説明しているが、何回読んでも解るようでどうも腑に落ちない。文章の達人・穂村さんにしてこれなのだから、他は推して知るべしである。
 最近のもので比較的分かりやすいかな、と思ったのは角川『短歌』の共同企画「前衛短歌とは何だったのか」の22年5・6・7月号の一連。しかしこれも、「私性」についてのアウトラインや各個の考えは分かるが、「だから結局どうなの?」というキモが見えてこない。
 こんなもやもやを以前も味わったことがあるな、と思ったら「文語・口語」について調べた時がそうだった。
 これも、昔は一言で説明できるほど自明の単語だったのが、近代・現代・現在と進むにつれ見方が多様化し、非常にめんどくさいことになってしまった。論議する時にもまず「文語・口語とは何か」という規定をしてからでないと話が全然かみ合わなくなってしまう、というのも「私性」と同じだ。その違和感と来たら、某所で豊満な「あけみさん」を指名したらすごくスレンダーな「アケミさん」が出てきたような……いやまあ、それはともかく。

 一つには、「短歌とは一人称の文学である」という、あの有名なテーゼも影響している気がする。
 いつ頃からこの定義が出てきたのかは知らないが、少なくとも始めは「である」という言い切りじゃなくて「に向いている」というソフトな考えだったんじゃないだろうか。
 それがいつの間にか「である」になり、「ねばならない」になり、それにつれて視野も狭まって、それから外れそうなものはすべて「短歌ではない」になってしまった。
 そしてこの流れはそっくり、「狭義の私性」にも当てはまるんじゃないか。
(ここで言う「狭義の私性」とは、「歌イコール詠み人本人」という、最も素朴で歴史のある「私性」観だ。)
 「一人称の文学」「狭義の私性」。どちらも、先達の歌人が長い時をかけて練り上げ、考え抜き、実体験から拾い上げて抽出した概念なんだろう。
 そして、くどいようだけれど僕自身はそれを否定しない。全然否定しない。その考え方から多くのすばらしい短歌が生まれ、多くの優れた論が出た。それはかけがえのない財産だし、現在でも通用する立派な概念だと思う。
 ただ問題は、それらの概念があまりにも力を持ちすぎ、ある時点でひとつの「教義」にまで祭り上げられてしまったことだったんじゃないか。
 いったん「教義」となった概念は、硬化し、視野狭窄を起こし、そこから外れるものを無条件で排除するようになる。周りに押しつけるようになる。「こんなにもすばらしい教えに従わないものは、ここにいる資格はない」と。
 「教義」は単純であるほどいい。と言うより、いったん「教義」になると複雑な思想を含んだものも平べったく単純化して受け取られるようになる。
 この場合で言えば、「自分のことを」「事実のままに」歌にする、という「教義」。
 決して間違ってはいないのだが、その後ろにある膨大な理念を読み取るには簡潔すぎる。そしてだいたいにおいて、万人が理解し納得できる論というのは、どこか落とし穴がある。
 かくして、「日記文学」と揶揄される状況が始まる。それに抵抗する歌人は「邪道」とさげすまれる。非常におおざっぱではあるが。それが近代から続いた(ひょっとしたら現在まで続いている)状況のひとつなんじゃないだろうか。
 その考えに根拠があるのならいい。自分で絞り出したものならもちろん最高。そうでなくとも、先達の多くの文献を読み、これこれこういう理由でこうならなければならないのだ、と説得されるのなら、従うかどうかはともかく喜んで理解するだろう。
 でも、そんな説明も無しに「こういうものなのだ」「こう決まっているのだ」といきなり言われて従う人間がどれくらいいるだろう(いや、けっこう多くいるのかもしれないなあ、とは考えたくないが)。

 人のことばかりを言っているわけにもいかない。逆のことを考えてみようか。
 「私性なんて古くさい」「一人称なんて誰が決めたんだ」「テキストだけを見て善し悪しを決めればいいんだ」こういった考え方を、僕は「教義」化していないだろうか。
 上に並べた考え方は、前衛短歌の時代、遡ればモダニズムやそれ以前から提示されていたものだ。その後、ニューウェーブ等での歌人たちの屈力もあり、かなり浸透したものになってきた。
 けれど、さっきの話の流れを思い起こしてほしい。ある考えが浸透するということは、その考えが「教義化」する危険性も孕んでいるのだ。その考えがどこから来たのか、本当に自分の体内から絞り出したものなのか、納得して使っているものなのか。
 もしも安易に「そういうものなんだ」「それが正しいんだ」と、思っているだけだとしたら……

「私性」ぐるぐる (1)

2011年10月08日 19時14分37秒 | インターミッション(論文等)

 「私性」について、もろもろと考えている。

 『短歌研究』23年10月号の「作品季評」で、やすたけまりさんの歌集『ミドリツキノワ』が取り上げられたのだが、この評が色々な意味で興味深かった。
 読んだ当初は
「いろんな感じ方があるんだなあ、ははは」
と、むしろ面白がって流していたのだけれど、日が経つにつれて、なんだか首の凝りが増していくような違和感を感じた。
 インターネットなどで調べてみると、この「季評」にけっこう反応がある。
 そのほとんどが、評者が示すやすたけさんの歌への拒否反応、その根っこにある「歌は歌人の人生を反映するものでなければならない」という伝統的な短歌観。それらに対する反発だ。
 その問題については、僕個人は特に言うことはない。
 始めに書いたように、人それぞれいろんな読み方があるのだし、そういった古典的な短歌観へのアンチテーゼとしてモダニズム・前衛短歌・ ニューウェーブ・ゼロ年代短歌などが起こったのだ、と言えば言える。
 古典的短歌観が短歌世界全体を覆ってしまうのは何としても息苦しいが、逆にそれがまるっきり無くなってしまった世界というのも、かなりすかすかで頼りないんじゃないだろうか。優等生的な意見ですが、そう思う。

 引っかかったのは、別の箇所だ。

「田中  昔、「私性」という議論がありましたが、この場合はそういうのは完全に希薄化しているというか、作ろうとしていないですね。
 小池  全く無いね。そういうところから発想していない。」

 いわゆる新人歌人の中で、やすたけさんほど「私性」が感じられる人は稀なんじゃないか、というのが僕個人の見解なのだが、とりあえず今は置く(それを追求するとものすごく長くなる上、話題が明後日の方向に飛んで行ってしまいそうだから)。
 目に付いたのはここ。「『昔』、「私性」という議論があった」
 じゃあ何かい、『現在』では「私性」なんてのは取るに足らない概念なのかい、と揚げ足取りの難癖付けなのは百も承知だが、思ってしまったのである。

 そういうわけで、つれづれに「私性」について考えてみる。
 もとより、論考と言えるほど考えは纏まっていない。これから書くのはただのスケッチだ。自分の考えを浮かび上がらせるための落書きに近い。矛盾があってもあまり突っ込まないよーに。