はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

霜(斎藤茂吉料理歌集)

2013年03月10日 17時20分46秒 | 斎藤茂吉料理歌集

「霜」


 昭和十六年


白き餅(もちひ)われは呑みこむ愛染(あいぜん)も私(わたくし)ならず今しおもはむ

海の幸あふるるばかりよりて來(こ)むはや呼べわが背はや呼べ吾妹(わぎも)

あかときの男女(をとこをみな)のこぞりたる網引(あびき)のこゑは海の幸(さち)呼ぶ

もろともに朝のこゑあぐる汀(なぎさ)には今こそ躍れ大魚小魚(おほうをこうを)

朝日子(あさひこ)を眞面(まとも)に受けて入りつ船海の幸(さちはひ)あふるるばかり

鰭(はた)の狹物(さもの)鰭のひろものに至るまで置き足(た)らはして朝明けむとす

哈爾濱(ハルピン)の市場にありて食料品買はむと誘惑を感じけるころ

きさらぎの鮒をもらひぬ腹ごとに卵をもちていかにか居(ゐ)けむ

飯(いひ)の恩いづこより來る晝のあかき夜のくらきにありておもはむ

納豆もしばらくは食はずしかすがに恣(ほしいまま)にてわれあるべしや

蕗の薹五寸あまりに伸びたちて華(はな)になりたり今朝はあひ見つ

吾がとなり若き母乳(ちち)を飲ませをりあまたたび乳兒(ちご)に面(おもて)すりつく

三越の地階に來りいそがしく買ひし納豆を新聞につつむ

狂者(きやうじや)らの殘しし飯(いひ)もかりそめのものとな思ひ乾飯(ほしいひ)にせよ

蕗の薹むらがり立つをよろこびてほほけぬ日日(ひび)を來て立ちまもる

みちのくの農に老いつつみまかりし父の稻刈(いねかり)がおもかげに立つ

酢章魚(すだこ)などよく噛みて食ひ終へしころ降りみだれくる海のうへの雨

タイ國(こく)の砂とおもひて身にぞ沁(し)む宵々(よひよひ)に米(こめ)より砂ひろはしむ

いろ赤き砂もまじりて遙かなる洋(うみ)彼方ゆ來つる米(よね)はも

配給を受けたる米(こめ)を愛(を)しみつつ居りたるなべに砂ひろひけり

まじりゐる籾(もみ)をし見れば細長くわがくにぐにの籾ごめに似ず

底ごもり安(やす)からぬものの傳はるをわれ否定して米袋解く

佐渡にして羽茂川の鮎愛(は)しといへど旅をいそぎて一つだに見ず

佐渡の春行かむとしつつかげともに白きを見れば梨の花さく

女等(をみなら)も田を鋤くなべに現身(うつしみ)にあまつめぐみの垂りつつゐたり

あはあはと苺の花のにほひゐてき蜂こそまつはりにけれ

ぜんまいのわたをかむれる萌立(もえだち)をひとり見つれば默(もだ)にしありき

櫻桃(あうたう)の花しらじらと咲き群るる川べをゆけば母をしぞおもふ

粒粒皆辛苦(りふりふかいしんく)すなはち一つぶの一つぶの米のなかのかなしさ

粒(りふ)卻(しりぞ)けて霞を喰ふといふことを古(いにしへ)の代に誇りしもあり

米を縁がはに干せば米の蟲いくつも出でて逃ぐるを見てゐる

たまはりし食物(をしもの)をおしいただきぬ朝のかれひにゆふの餉(かれひ)に

おぼろなる心うごきは安からず米(よね)に係はりつ昨日も今日も

山中(やまなか)にくもり深けば惜しみつつ珈琲(コオヒイ)を煮しこの私事(わたくし)よ

山中にこもれるわれに樂しめと最上川の鮎十(とを)おくりこし

こもりゐる吾(あ)にも食へよとたまものと熱海のうみの生き足りし魚

米の蟲の白米(しろごめ)侵すありさまを見たりけるいたく驚きながら

一椀(いちわん)の味噌汁の恩(おん)干し蕨いれてたぎてる汁をし飲めば

ものきびしき世相(よさま)にありてはしけやし胡瓜(きうり)噛む音わが身よりする

しげみにはき葡萄の房も見てそこはかとなく山を遊ぶも

白膠木(ぬるで)の實うすくれなゐになりにけり秋ふけにして鹽ふくらむぞ

哀草果われにくれけむ納豆も七日(なのか)たもたずかたまりゐるを

山形のあがた新米(にひごめ)のかしぎ飯(いひ)納豆かけて食はむ日もがも

山なかにわが持て來つる二斗餘の米を愛(を)しみて疊にひろぐ

ものなべて乏(とぼ)しといひて粘(ぬめり)ある山草(やまくさ)くへばよろこびまさる

小つぶなる金平糖を見いで來てをしみつつ居る女中等のこゑ

納豆を食はずなりしより日數經てその味ひもおもひいださず

刈りをへし稻田(いなた)にくだり晝の飯(いひ)食ひつつ見守(まも)る松尾山(まつおやま)ひくし

勝さだまりし最後の陣のあとどころ稻田のうへに西日さしたり

山椒の實を摘みとりて秋山をおもひいでむと語りあひける

うつくしく柿落葉せるかたはらに茶の花咲けりひとのたづきに

胡頽子(ぐみ)の實のくれなゐ深(ふ)けしこの峽(かひ)は夜空はれて霜ふるらむか

みちのくの秋田あがたより送りこし榠櫨(くわりん)ななつをわれは愛(を)しむも

黄色なる榠櫨枕べにひとつ置くわれの眠らむその枕べに

香(かう)のもの食(は)むときさへにただならず國(くに)のお歴々感冒を爲(す)な

厚(あつ)ら葉(は)のなかにこもりて萬年(おもと)の實紅(あか)きころほひ時雨ふりけり

健康の遺傳すること見つつくる路傍の石榴(ざくろ)くれなゐふけて

わが心たひらになりて快し落葉をしたる橡(とち)の樹(き)みれば

牛飼と牛飼どちの交りは歌をつくりて樂しかりけめ

高ひかるひじりのみよにためらはず鰻をめでてこころいさまむ


 昭和十七年


この川は時にあらぶる川となり森ながし畑(はた)流し田ながす

この沼にはりし氷を方形(はうけい)に挽きて運びしあとを見てゐる

梨の花家をかこみて咲きゐたり春ゆくらむとおもふ旅路に

霜よけの紙のおほひも心親し胡瓜のたぐひ双葉に萌えて

くろぐろと咲ける木通(あけび)の花をしも道のべにしてわれはかなしむ

大根(おほね)の丸ぼしを軒に吊したり雪ふるときの食物(をしもの)なるか

このに著くまでわれの目にとめしつぼ菫(すみれ)の花ぜんまいの萌え

その母は畠(はた)たがやすと畠すみの行李の中に稚兒(をさなご)置けり

みちのくの笹谷峠のうへにのぼり午餉(ひるげ)ひさしくかかりて食へり

わたつみの魚(うを)を背負ひて山形のあがたへ越えし峠路(たうげぢ)ぞこれ

そのみづのうへにかぶさり消(け)のこれる雪ふみ越ゆる時に雪食(は)む

から松の木原(きはら)めぶきてにほへるを目交(まなかひ)にして下りつつあり

ほほの木はふとく芽ぶくにさにづらふかへるでの萌(もえ)もゆるがごとし

わが心充(み)たむがごとく山中(やまなか)のふと樹の橡(とち)は芽ぶきそめたり

くろぐろとして我がそばに咲きゐたる通草(あけび)の花のふるふゆふぐれ

桑の花かすかに咲きて垂りをるを一たび吾はかへりみにつつ

萌えそめし木々の木芽(このめ)の愛(は)しきかもそのおほむねはいまだ開かず

澤のべにむらがり居りて薇(ぜんまい)のいまだ開かぬ萌(もえ)を愛(かな)しむ

栗の毬(いが)などかたまりありてそのほとりかたくりの花にほひてゐたり

くわん草(ざう)のひとつらなりに竝(なら)びたるあやめぐさには紫(むらさき)ふふむ

ふた山のよりあふ小峽(をかひ)にさ蕨のもえいでて春逝かむとすらむ

のぼりゆく山のいただき近くしていでし蕨はおよびのごとし

山のべの沼に下り來て蓴菜(じゆんさい)をもとむる吾をあやしとおもふな

眼下(まなした)に平たくなりて丘が見ゆ丘の上には畑がありて

出羽(いでは)なる山の蕨も越(こし)のくにの笹餅(ささもちひ)をも食ひてあまさず

櫻の實くろく落ちたる下かげをわれ行きしかば人しおもほゆ

日にむかふ油ぎりたる草を目のまへにしてしづ心なき

春野菜滿載したるトラツクの勢(いきほひ)づきてゆくを見守(まも)りつ

いでたたむ軍醫中尉の弟とひるの餅(もちひ)を食(を)すいとまあり

蕗の葉の裏につきゐる蟲をけさもつぶしに吾は來りぬ

木瓜(ぼけ)の實はまだしなどいへれどもやうやくにして夏は深まむ

おごそかに古りけるものか樹膚(きはだ)には白ききのこをやどらしめつつ

秋さりてやうやく茂る草のあり傍(かたはら)のくさ實のこぼるるに

くろぐろと實になる草のかたはらに月草(つきくさ)いまだにほふあはれさ

九月になれば日の光やはらかし射干(ひあふぎ)の實もくふくれて

かぎりなき稻は稔りていつしかも天(あめ)のうるほふ頃となりしぬ

ひと夏を山に明け暮れかへり來て稻の稔りをおもひつつ居り

ためらはむことひとつなしくらきより起きて飯(いひ)くふ汝(な)が父われは

あまのはら冷ゆらむときにおのづから柘榴(ざくろ)は割れてそのくれなゐよ

据ゑおけるわがさ庭べの甕(かめ)のみづ朝々澄みて霜ちかからむ

ゑらぎつつ酒相のみし二十五年のむかしおもへば涙おちむとす

わが庭をみればくれなゐの實をもてる萬年(おもと)のうへに雪ふりしきる

酒(さか)やけに常あかかりし君の鼻はや白きかなやつひのわかれは

たまはりし信濃のうなぎ忝(かたじけ)な三日かかりてわれ食ひをはる





   原本 齋藤茂吉全集第三巻(昭和四九年)


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