はいほー通信 短歌編

主に「題詠100首」参加を中心に、管理人中村が詠んだ短歌を掲載していきます。

「選」について(6)

2008年09月06日 21時51分48秒 | インターミッション(論文等)
(続き)

 『念力短歌トレーニング』の中で、笹公人さんは正にこの事について、ご自分の体験を交えながら語っている(202ページ)。
 プロと呼ばれる人たちは、皆このような体験を何度もくぐり抜け、自分の目を養ってきたのだろう。

 もちろん私はプロになろうと思ったことはない(と言うよりそもそも‘なれない’と思っている)。
 それでも、「詠む」と「読む」が等価であると言われる、短歌という文芸を志す者として、そのような目(あるいは基準)の欠片なりとも、もしも持つことができたら、と思う。
 それは、
「自分が心から納得できる歌を、一首でいいから詠みたい」
という目標を持つ者にとって、得難い指標になるのではないか。

(終わり)

「選」について(5)

2008年09月06日 06時40分48秒 | インターミッション(論文等)
(続き)

 要するに、ここで言葉と頭をひねくったところで、簡単に分かるような事柄ではない、ということだろう。
 ここまで長々と引っ張ってきたのに、こんな情けない結論でいいのか!とも思うのだが、分からないのは本当だからしょうがない。

 どの本だったか思い出せないが、
「プロが歌を選ぶ場合、『良い歌』の選は往々にして分かれる。しかし、『良くない歌』の選は見事に一致する」
という意味の記述を読んだことがある。
 あるいはこれは短歌ではなく、他の芸術について語られた記事だったかもしれない。
 しかし、「プロの選」という意味では、芸術全般に通用する言葉だと思う。

 ポイントは、選が一致するのは「良くない歌」であるということだ。
「悪い歌」でも「分からない歌」でもない。
「悪い」は、マイナスではあってもエネルギーを秘めている。見る人が違えば、それは「良い」に変化する(「分からない」も同様)。
 だが「良くない」にはそのエネルギーがない。ひっくり返しても「悪くない」という評価にしかならない。それはある意味、最悪の評価だ。
 つまり、
「プロ同士には作品のエネルギーを評価する明確な基準がある」
 そういう意味だろう。
 そして、その基準を掴むことが、プロであることの条件(の一つ)なのではないだろうか。

(続く)