ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いつの間に「個人の判断」はなくなった?

2023-08-03 08:08:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いつの間に」7月29日
 読者投稿欄に、大分県の高校教員N氏による『マスクを外せない生徒たち』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でN氏は、『ずっと悩んでいることがある。それはマスクを外せない生徒のことだ』と書かれています。
 そして、『マスクを外させる指導に苦労している』『マスクを外しても大丈夫と言える場面でもかたくなに外さない』と嘆き、『時間をかけて話をしながら、本人の気持ちを変えていこうと考えている』と述べていらっしゃるのです。
 とても混乱しました。N氏も書かれているように、『マスク着用が個人の判断に委ねられる』はずです。それなのに、N氏はマスクを着用したいという生徒の意思を無視、もしくは好ましくないものとみなし、マスクを外させることに強い覚悟を示していらっしゃるのです。どうしてなのでしょう。
 もしN氏に、マスクは好ましくないという考えがあるのであれば、それを校長や同僚教員に訴えかけ、学校として原則としてマスクは外すという方針を打ち出し、生徒や保護者の理解を得るべきです。そうした手順を踏まずに、N氏だけがマスク外しに固執すれば、学校としての指導方針に疑念を抱かせることになってしまいます。
 昔、不良はマスクをしていたものでした。長ランや女物のサンダル、ボンタンズボン、白い細いベルト、などと同じ不良の制服のようなものでした。当時は確かに、風邪をひいているわけでもないのにマスクを外せ、という指導をした教員もいましたが、N氏はまだ45歳、教員としてそんな時代を経験しているはずはないのですが。
 N氏がマスク外しのこだわる理由とは別に、もう一つ気になったことがあります。それは、「時間をかけて話をしながら」ということです。私は近年の若い教員(N氏の若い)が行う生活指導について、一つの「偏見」をもっています。それは校則至上主義です。生徒には自由があり、それを制限するような指導は、その根拠として校則による定めが必要であり、どんなに指導が必要と思っていても、校則に定めがないことは指導できない、という考え方です。
 情けない話です。規則があるから言うことを聞けというのであれば、それは教育者の仕事ではありません。教員と子供がお互いの話に耳を傾け、信頼関係を作り、子供が納得して自ら行動を改める、それが理想です。もちろん、現実がそんなに甘くないことは百も承知です。しかし、教員がそうした理想を忘れてはいけないのです。
 そうした意味から、N氏が校則に頼らず、対話を重視していこうとする姿勢には共感するのです。その目的がマスク外しというのは疑問ですが。

 

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